リチ・リックスと上野伊三郎2022/03/30 07:10

 三菱一号館美術館で「上野リチ : ウィーンからきたデザイン・ファンタジー」展(5月15日まで)を見た。 3月21日に、岩崎邸を設計したジョサイア・コンドルが育てた曽禰達蔵を「慶應義塾旧図書館や三菱一号館の」と書いたが、「三菱一号館」はジョサイア・コンドルの設計、愛弟子の曽禰達蔵を現場主任とする三菱社内の「丸の内建築所」の直営で施工され、明治27(1894)年6月30日に竣工したのだそうだ。 高度成長期の昭和43(1968)年に解体されたが、歴史的建造物復元の一つとして、三菱地所、竹中工務店によって復元され、平成22(2010)年4月に美術館として開館した。

 リチ・リックスは「三菱一号館」竣工の一年前、1893(明治26)年ウィーンでユダヤ系の裕福でリベラルな事業家の家庭に長女として生まれた。 幼い頃から芸術的素養を育み、ウィーン工芸学校でデザインを学んだ。 1917(大正6)年に24歳で卒業すると、同校教授でもあった建築家ヨーゼフ・ホフマンの招きで、ウィーン工房に参加する。 英国のアーツ・アンド・クラフト運動を手本に応用芸術の刷新を図ったこの工房で、テキスタイル・陶器・ガラス・七宝図案など幅広いジャンルに、独自のスタイルを確立した新作を発表してゆく。 パリ万国博覧会にも出品・受賞するなどし、とりわけプリント図案は「リックス文様」と呼ばれ高い評価を得た。

上野伊三郎は、1892(明治25)年に京都で、祖父は宮大工、父・伊助は上野工務店を経営する家に生まれた。 早稲田大学建築学科で学び、1922(大正11)年卒業。 ドイツのシャルロッテンブルク工科大学、オーストリアのウィーン大学へ留学し、1924(大正13)年ヨーゼフ・ホフマンのウィーン工房に入所する。 ここで所員の工芸家リチ・リックスと出会い、1925(大正14)年に結婚する。 伊三郎は33歳、リチは32歳だった。

伊三郎はその年帰国、1926(大正15)年京都で上野建築事務所を開設、リチ夫人は同年来日し、事務所の美術工芸部主任となった。 1927(昭和2)年インターナショナル建築会を結成、機関誌『インターナショナル建築』を刊行、モダニズムの普及に努める。 ナチスの迫害を逃れ1933(昭和8)年5月3日来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトを敦賀港に迎え、翌日タウトの誕生日に桂離宮を案内した。 その後も修学院離宮や比叡山延暦寺、伊勢神宮などに案内、講演の通訳を務めた。 仙台と高崎で工芸の指導をし、1936(昭和11)年1月に離日、トルコへ向かったタウトの紹介で、伊三郎は高崎の群馬県工芸研究所所長に就任、1939(昭和14)年まで務める。(子供の頃、中延の家にブルーノ・タウトの『日本美の再発見』があり、その名を憶えた。)  戦後は、夫妻で京都市立美術大学の教授を務め、1963(昭和38)年夫妻でインターナショナルデザイン研究所(後にインターナショナル美術専門学校、京都インターアクト美術学校)を設立した。

リチ夫人は1967(昭和42)年、伊三郎は1972(昭和47)年に亡くなった。