語らなかった父、日系二世の苦悩2022/04/17 08:07

 森山良子の父・久は、日本国籍を回復した3日後、昭和17(1942)年6月27日、南方慰問団に徴用され出発する。 アメリカ軍では日系人部隊が編制され、ヨーロッパ戦線に出ていた。 南方から帰った久は、対米謀略放送「ゼロアワー」、ラジオトウキョウの演奏責任者になった。 米軍兵士に「東京ローズ」と呼ばれて人気のあった女性アナが、「みなしごアニー、バラの花を集めて戻って来なさい、広い太平洋に散らばる、大切な親しい人に」などと、呼びかけていた。

 久は、良子たちに戦争が始まってからのことは、一切話さなかったという。 昭和20(1945)年8月15日、終戦。 実は9月3日、原爆投下直後の広島へ行っていた。 従軍記者団のカメラマンに、ウェイン・ミラー(海軍)とアイアマン(『ライフ』)がいたが、アイアマンが「東京で通訳にラジオトウキョウで演奏していた、いかしたトランペット奏者を見つけた」と語っている。 久が通訳したであろう救護所の写真など、悲惨な言葉に言い尽くせない記録が残った。

 その後は、進駐軍の将校クラブで、ニュー・パシフィック・オーケストラという大半が「ゼロアワー」のメンバーで演奏した。 昭和21(1946)年、長男・晋誕生。 ところが、久はBC級戦犯裁判に関連して、巣鴨プリズンに収容されることになる。 南方慰問団から帰国する船で、イギリス人捕虜が多数死亡し、その責任を問われたのだ。 昭和22(1947)年1月23日、37歳で収監され、久直筆英文の嘆願書「犯罪容疑をかけられる根拠はない」が残っている。 裁判にかけられず、まもなく釈放された。

 昭和23(1948)年1月、良子誕生。 しかし、また、対米謀略放送にかかわった日系二世の追求が始まる。 「東京ローズ」、アイバ・戸栗の国家反逆罪の裁判で、国籍の選択が明暗を分ける。 東京ローズ裁判の証人として、「ゼロアワー」関係者19名が召喚され、久も15年ぶりの帰郷をした。 昭和24(1949)年8月10日午前10時、サンフランシスコ裁判所の証言台に立ち、64ページの記録が残っている。 「覚えがない」「聞いたことがない」という、精一杯の答弁で、同じく証人台に立ったトム・忍足(おしたり)は気の毒で何も言えなかったと語っている。 アイバ・戸栗は、アメリカ国籍を替えてなかったから捕まった、みんな同じ二世なのに…。 10月5日、アイバ・戸栗に有罪、禁錮10年、アメリカ市民権剥奪の判決、反逆者の烙印が押された。

 森山良子の父・久は、抱えているものがいっぱいあった。 娘の良子がシンガーとして活躍し始める頃、引退した。 昭和46(1971)年、24歳の長男・晋が突然、心不全で亡くなる(後に昭和63(1988)年になって、森山良子は「涙そうそう」に歌った)。 嘆く家族に父・久は、「そのことを言うのはやめよう、帰って来ないんだから、そのことで悲しむのは、もうお終い」といい、家で英語はほとんど話さない人だったが、「WE MUST LIVE」と言った。 生きていかなくちゃあならない、前を向いて、と。 日米、二つの祖国を持ったゆえの試練、そのすべてを受け入れて、懸命に生きた人の言葉だ。 森山良子は、いつも生き抜いて行く、家族を守っていく、強いものを持っていた人だが、大変だったと思う、と述懐した。 父・森山久は、平成2(1990)年、80歳で亡くなった。