義経が次第に、窮地に追い込まれる2022/05/21 07:39

 『鎌倉殿の13人』、5月15日の第19回「果たせぬ凱旋」。 義経は鎌倉に凱旋したいのだ。 後白河法皇は、義経を京都から離れられない検非違使に任命して手元に置き、頼朝と義経の間を裂いて、鎌倉の権力が大きくなるのを防ごうとしている。 頼朝は、法皇と義経が結びつくことに不安を募らせる。 後白河法皇に義経を土佐守に任命して検非違使を解任してもらうように図るが、法皇は土佐守と検非違使を兼任させてしまう。 義経がだんだん、窮地に立たされていく。

 三谷幸喜の脚色らしいのは、(一)義朝のしゃれこうべを、文覚が持参して、追悼の法要に義経を呼ぶ案が出て、義時が喜ぶ件。 (二)義経に、頼朝との仲立ちを頼まれた後白河法皇が、毬をわきの下に挟んで、脈を無くす。「真似しないように」と、長澤まさみのナレーション。 (三)義経の正妻である比企の娘の里(三浦透子)と静(石橋静河)が、直接対決し、義経は二人で話し合ってくれと席を外す。

 鎌倉時代の歴史に疎いので、知らなかったこともあった。 ドラマでは、頼朝の命令で京都守護職として上洛した時政と義時が、「日の本一の大天狗」後白河法皇に頼朝追討の宣旨を出したことをなじり、「都と西国を治めとうございます、国ごとに地頭を置き、米と兵を集めること」を交渉に行った、鎌倉・室町時代の「地頭・守護」の起源。 頼朝は文治元(1185)年、行家・義経を捕らえる名目で、勅許を得て、各地の荘園・公領に「地頭」職を置いた。 御家人が任命され、荘園・公領内の税の徴収権、警察・刑事裁判権を持ち、次第に在地領主として成長した。 承久の乱以前に任命されたものを本補地頭、以後のものを新補地頭という。 「守護」職は、大番(おおばん)の催促(御家人を京都大番役につかせる割り当て、召集、引率勤番などの業務)、治安維持、謀反人・殺害人の追捕などに当たらせたもの。 もとは国司の公事、地頭の所務などに干渉することを禁じられていたが、権力拡張の結果、次第に任国を領国化していった。

 土佐房昌敏(とさのぼうしょうしゅん)が、文治元(1185)年10月17日、六条室町、堀河の邸に義経を急襲したこと。 土佐房昌敏は、その前年8月範頼にしたがって西国に出陣し豊後国に渡海していた。 里の手引きというのは、三谷幸喜の脚色だろうが…。 頼朝の命を受け、義経殺害のため83騎を率いて上洛、義経を急襲したが失敗、鞍馬山に逃れて捕らえられ、10月26日六条河原で梟首された。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック