実質的に将軍の力を持った北条政子2022/05/25 07:06

 『鎌倉殿サミット2022』は、頼朝の死後、何があったか、の問題に移る。 二代頼家は、18歳で将軍になったが、土地紛争の調停などはいい加減で、蹴鞠にうつつをぬかし、母政子に叱責された。 政治は13人の合議制でなされたといわれる。 源家、頼家は23歳で死に、三代実朝は28歳で暗殺された。

 1203(建仁3)年北条時政は、頼家が病に倒れると、頼家の嫡男一幡(いちまん)と(娘が乳母だった)頼家の弟実朝のうち、実朝を後継に決めた。 頼家は時政討伐を目論むが、政子は頼家を修善寺に幽閉、時政、義時は一幡を邸もろとも焼死させる。 頼家は翌年、謎の死を遂げる。 三代実朝は12歳で将軍となり、その執権に義時が立つ。

 実朝は、後鳥羽天皇と良好な関係で、右大臣の官職に就いた。 実朝は、1219(承久元)年鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の儀式のとき、千人の武士が従っていたのに、頼家の息子公暁(くぎょう)に殺された。 直前、太刀持ち(護衛担当)の義時は、体調不良を理由に引き返した。 公暁は、数時間後、討ち取られ、真相は闇に葬られた。 義時は、実権を握る。

 佐伯智広さんは、『吾妻鏡』の空白の三年間は、頼家の跡継ぎ隠蔽のため、一幡は頼朝と政子の初孫で、跡継ぎの跡継ぎ。

 野村育世さんは、政子の時代、女性の地位が高かった、実質的に将軍の力を持っている。 四代政子。 13人の宿老はいたが…。 政子は、源氏側か、北条側か。 坂井孝一さんは、「源家の家長」。 源を殺す。

 本郷和人さんは、「伊賀氏の変」(1224(貞応3)年)、義時の死後、後妻の伊賀局が娘婿を将軍に擁立しようと図ったが、政子によって流罪にされた。 井上章一さん、「極道の妻」と。 後家として実権を持つ。

 長村祥知さんによって80年ぶりに発見され、高野山霊宝館に納められた承久の乱の「承久記絵巻」。 1219(承久元)年、内裏の焼失による増税を鎌倉幕府が断り、義時追討令が出される。 1221(承久3)年、政子が立ち上がり、檄を飛ばした結果、1万の軍勢が、後鳥羽上皇側1千7百に圧勝する。 後鳥羽上皇は、隠岐へ流罪。 唯一、武士が勝った、武士中心の戦い。 三上皇を流罪にし、幕府の朝廷に対する優位が確立した、日本史上の画期。

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