明治16年の「開国論」、東洋道徳復活論を批判2022/06/26 07:41

 小室正紀さんの「『時事新報』経済論を読む」講座、毎回、各論説の【主旨】【要約】と、注目すべき文章(引用)が、資料として配られたが、その一例を紹介しておきたい。 4回目、2018年9月26日の講義、これは『福澤諭吉全集』収録の「開国論」明治16年2月14/15日、3月22/23/24日。

【主旨】近時の東洋道徳復活の世論を文明開進と外国交際の観点から批判する。

【要約】幕末には西洋諸国と日本とが互に異類視して相互に理解がなく、様々な軋轢を生んだが(*1)、文久の遣欧州使節は欧州を見て大開国主義に変じた。その後、内外の交際が次第に繁多になり、日本も維新後は外国交際が大切であることを知り、我より欧米文明を摂取して、内外の人民が相識ることとなった。西洋に心酔している譏(そしり)も免れないが、長い目でみれば、西洋文明の主義に従い(*2)「和漢古今不智無術の陋習」を脱するべきである。

(中略)ところが、近頃は文明開進の激しさに驚いて、昔に帰ろうとしている。開国の激変だけではなく、ここ50年来の文明は蒸気・電信・郵便・印刷など発明発達に従い、社会を根底から顛覆して新社会を創っているものなので、西洋でも狼狽するほどのものなのである(*3)。日本国民がそれに応じられないのも尤もである(*4)。しかし、これは文明諸国一般の風潮であって、一国一人で左右できるものではなく、たとえ不愉快でも耐えなければならない。

 退歩・反動として少年子弟に漢書を読ませることが流行し(*5)、その余波で、唯我独尊に東洋道徳を尊ぶ論者が出てきている。しかし、道徳の本は人類天然共通の人情であり、東西の間でも根本は異ならない。それが人間社会知識の発達、社会上の必要によって説明の仕方が変わっているのみである(*6)。それにもかかわらず、唯我独尊の道徳観で他国人を異類視することは、外国交際にも無限の不都合を生じる(*7)。

 進歩の劇しさに驚いて、道徳論の極端に走って古学頑固者流の言に依頼して一国永遠の大計を誤ってはいけない。

[『時事新報』の文章]

(*1)「人間交際の禍は此彼相知らざるより大なるものはなし」「双方の事情相通ぜざるの時に於て各自見解の齟齬は、不測の極端に達するものなり」

(*2)「我輩は常に西洋癖を好まずして其過度なるを警しむる者なりと雖ども、是は局処随時の議論にして可なり。一般に関する永遠の得失を云ふときは、啻(ただ)に西洋癖を咎めざるのみならず……」

(*3)「近代の文明は西洋の本国に於ても正に五十年来の文明にして、百般の事物、人の耳目を驚かすもの少なからず。或は之が為に旧慣を払ふこと劇しきに過ぎて、老人の頑固者流は之に従ふの難きに苦しみ、常に狼狽する程の次第にして……」

(*4)「文明開進の急劇を好まざる諸君子も、我輩に於て其情を察せざるに非ず。或は我輩の一心に思ふ所のものと暗号(ふごう)して、必ず憂患を共にする場合もあらんと雖ども、我輩は思ふ所を言はざるのみ。之を言ふを知らざるに非ず、之を言ふも有害無益、実際に行はれざるを知て忍びて言はざるのみ」

(*5)「苟(いやしく)も学問(サイヤンス)と名づく可きものは之を和漢の書に求む可らず。」「漢書は唯学問の補助」

(*6)「道徳の本は、………結局天然の人情より外ならずして、之を説明するの法は人間社会智識発達の前後に従ひ、其社会を維持するの要用に由て異動あるのみ。」

(*7)「唯我独尊とは正しく唯我独卑と云ふに異ならず。独り自から我道徳の旨を尊しとして他国他人を異類視するときは、人亦我れを異類視する当然の理にして、異類異情の人は相互に其交際法も亦同様なるを得べからざるなり。」