『スクラッチ』とは、何のことか?2022/07/05 07:07

 数学の時間が終るや、鈴音は千暁の腕をひっつかんで美術部にダッシュした。 「ほんとごめんほんとごめんほんとごめんんんっ!」 「いいよ」千暁は言った。

 市郡展の審査がないってことが、思いのほか響いていて、うまく絵が描けなくなっていた。 体育館の鈴音たちも、大会がなくなって、ふてくされて練習に身が入らなくなっている。 ……この墨で汚されたのは、今の僕らそのものじゃないか。 千暁は黒のアクリルガッシュを取り出して、特大の黒チューブを金属製のトレーに乗せて、版画に使うローラーにべったりとつけた。 はじから慎重に、しっかりと、あざやかだった絵の上に転がしていく。 黒く。 黒く。 全部、黒くすると、不思議なことに、少しずつ、少しずつ、気持ちは落ち着いていった。 そうだ、なんかこの絵は嘘っぽいって心のどこかでずっと思っていたんだ。

 がたん、と部室のドアが開いた。 部活が終り、バレー部のネイビーブルーのユニフォームを着たままの鈴音がひどく青ざめた顔をして千暁の顔を見た。 絵を見て、息をのみ、破裂したように大声で泣き出した。 うわぁあああああああ! 千暁は、鈴音をイーゼルの後ろに立たせると、パレットナイフを取り出し、もう乾いたキャンバスの黒を削り出していく。 黒い絵の具の中から、あざやかな色合いが、虹色が、細く細く顔をのぞかせる。 削れ。 削れ。 削り出せ。 決して逃がすな。 対象を捉えろ、この鈴音の爆発を捉えろ。 これは狩猟だ。 獲物を捕まえろ。 生け捕れ。 こんな好戦的な気持ちで絵を描いたのは生まれて初めてだ。

 鈴音は絵を見て、「すごい。すごいきれいだと思った。鼻水出てんのに。ひどい顔なのに」と言う。 「モデル料タダにしてあげるから、鼻水消さね?」とも言ったが、「断る」と千暁。

 ネタバレになるけれど、『スクラッチ』という題は、この削り出しの技法の名前だった。 泉仙先生が、市郡展が審査なしになって、がっかりしていた千暁に、県展に出展したらどうかと提案する。