内海忠勝神奈川県知事、子孫が慶應というメール2022/07/13 06:50

 6月13日にアップした<等々力短信 第1156号 2022(令和4).6.25.>「自由民権の町田が東京へ」には、いろいろな反響があった。 「ブラタモリ」をけっこう沢山の人が見ていることもわかった。 反響の中で、慶應には実にいろいろな人がいるということを実感させる一通のメールがあった。

 「等々力短信」の一番終わりに、「神奈川県知事の内海忠勝は中央集権の考えで、石阪昌孝らの盛んな自由民権運動の民衆の考えが目障り、多摩川と離れた南多摩郡まで東京へ追い出した」と「ブラタモリ」でやっていたことに触れた。それに対し、毎月、感想のメールを頂く大学同期のYさんが、さっそく「内海忠勝神奈川県知事」の子孫の方と付き合いがあるという、メールをくれた。 内海家は三田に広大なお屋敷があり、YさんもYさんのお姉さんも、内海家の子孫内海勝正さんや内海淑子さんと親しくさせてもらったという。 内海勝正さんが長兄で男7人、末っ子の淑子さんとの8人兄弟、男全員慶應義塾で活躍し、それぞれ柔道部、水泳部、空手部などで大変な功績を残しているのだそうだ。 内海家は伊藤博文と大変密接な関係で、それは伊藤家系図を参照すればわかるとあった。

 内海忠勝神奈川県知事、なるほど長州出身だった。 天保14年8月19日(1843年9月12日)、周防国吉敷郡吉敷村(現、山口県山口市)に吉田治助の四男として生まれ、長州藩士として禁門の変に参加、維新後新政府に登用され、岩倉使節団に大使随行員として参加している。 地方官として、長崎、三重の県令、兵庫、長野、神奈川(第3代知事)、大阪、京都の知事、会計検査院長を歴任。 1899(明治32)年11月貴族院議員に勅選され、1900(明治33)年3月まで在任。 1901(明治34)年、第一次桂内閣で内務大臣(第20代)に就任し、初入閣を果たした。 1904(明治37)年7月貴族院男爵議員に就任し、1905(明治38)年1月20日に死去するまで在任した。