「自由民権運動の経緯」と福沢『国会論』2022/07/14 06:53

 「自由民権の町田が東京へ」に関連して、福沢諭吉と自由民権運動について、見てみたいと思う。 富田正文先生の『考証 福澤諭吉』下巻の「明治十四年の政変」の章に、「自由民権運動の経緯」がある。

 明治6(1873)年に征韓論がいれられず下野した諸参議のうち、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の4前参議と、小室信夫、由利公正、岡本健三郎、古沢滋の4名を加えた8名連署で、明治7(1874)年1月17日に民選議院設立建白書が左院に提出された。 これから5日前の1月12日に、この8名の連署者とその他の有志者が副島前参議邸に集まり、愛国公党を結成したのが、自由民権派の最初の政治結社であった。 天賦の人権に基づいて民選議院の設立を要求することが、当面の政治課題であるとした。 しかし、党の中心人物である板垣退助と片岡健吉が相前後して土佐に帰ってしまったので、事実上消滅してしまった。

 明治8(1875)年1月から2月にわたって、大久保利通、木戸孝允、板垣退助の現前3参議が大阪に集まって、政局の収拾について意見を交換した。 いわゆる大阪会議である。 このとき板垣は、旧愛国公党の同志の再結集を呼びかけ、土佐の立志社が中心になって、全国的政治結社として愛国社が結成された。 ところが、結成後十日も経ないうちに、板垣が参議に復帰することが決まったので、反政府運動を目標に結集した愛国社は、何の活動もしないうちに自然消滅してしまった。

 明治10(1877)年の西南戦争後は、武力による反政府運動は影をひそめ、代わって言論による大衆組織によって専制政府を打倒しようという方向へ、有志者の指向が変わって来た。 土佐の立志社は愛国社の再興を図り、各地の政治結社に呼びかけて、明治11(1878)年9月に大阪で愛国社の再興大会を開き、その後毎年春秋に大会を開いて、やがて全国政治結社の中核的存在になった。

 福沢諭吉は、明治12(1879)年7月28日から8月14日まで、11回にわたって『郵便報知新聞』に「国会論」と題する社説を掲載、8月のうちに単行本『藤田茂吉・箕浦勝人述/国会論 前編』として出版した。 福沢の『国会論』が発表された後の、11月の愛国社の第3回大会では、愛国社は国会開設実現を期する全国的規模の大衆的請願運動を組織化することを、当面の最重要課題として採り上げた。

 果たして『国会論』が愛国社の運動に影響を与えたかどうかは、見解が分かれるけれど、この時期から国会開設請願運動は燎原の火のような勢いで燃えひろがり、福沢自身も門下生の有志者に頼まれて、神奈川県下の人民の国会開設請願の趣意書を代筆して与えたこともある。 その趣意書は各地の新聞にも転載されて、条理整然としたその文面は国会開設請願書の範とされたという。