福沢の「国会開設の儀に付建言」2022/07/15 07:08

 福沢が代筆した神奈川県下の人民の国会開設請願の趣意書だが、依頼した門下生は小田原の人、松本福昌、明治11(1878)年12月に慶應義塾を卒業している。 『福澤諭吉全集』第20巻220頁~223頁に「国会開設の儀に付建言」が掲載されている。 明治13(1880)年6月7日付、宛名は、元老院議長 大木喬任殿。

 「相模国九郡五百五拾九町村弐萬三千五百五拾五名の人民奉上申候。」「国会開設の儀は兼て(改行)主上の御誓文竝に難有御明詔の趣きも有之、立憲政体即ち国会開設の精神にして、取も直さず上より御沙汰相成候御儀にて、今日迄の所は唯其時節未だ到来不致、漸次に其御運び可相成との御事に御座候處、本年に至りては世上の人気も彌以て此開設に熱心仕候趣にて、既に諸方より出願の向も不尠、此事に就ては如何なる辺鄙の田舎に至るまでも一句の不の字を申者無之は、全く人心の之に熱して時節到来致し候儀と奉存候。就ては私共一萬八千七百六拾壱名の人民も矢張天下の衆論に同じく開設の儀飽迄奉希望候。」

 (世界万国の交際は、徳義人情でも、約束法律でもなく、ただ恃むところは兵力、日本も兵備を厳重にすることが肝要だ。)「方今護国の用意行届かざるは、国に人物なきにあらず、又財なきにあらず、唯其人物を政府に集むること能はず、其財を国庫に積むこと能はざるの罪のみ。現今の歳入五千余萬円にては、僅に従前の政府を維持するに足る可きか或は足らざることならん。近日紙幣の下落一円に付五十銭の差を生じ、政府の歳入五千萬円なるも其実は三千余萬円に過ぎず、実に焦眉の急難と可申、政府は何等の方便を以て此財政の衰頽を恢復せんと欲するか、既往は論ぜず、今日に在ては大に国債を募て急を救ふの外策略なかる可し。然るに此国債を募るに当て、政府は果して人民をして悦で此募に応ぜしむる程の人心を得たる歟、乍恐未だ此場合には至らざることと奉存候。今日の有様にては日本は政府の日本にして未だ人民の日本にあらず、故に日本の艱難も唯政府の艱難にして人民の艱難にあらず。人民若し国の艱難を身に引受け国難を身難とするの日に至れば、何ぞ国財の不足を憂るに足らん。国債を募て紙幣を消却するが如きは易中の易と申ものなり。其人民をして国難に当らしむるの方便は、他なし。唯之に参政の権を附與して国会を開設するの一策あるのみ。政府は此焦眉の急に接しながら尚且何等を顧慮して荏苒(じんぜん。為すことのないまま歳月が過ぎること)今日に至り給ふ哉。乍恐私共の愚見に於て解す可からざることに御座候。」

 (紙幣消却も若干の内債を募ればよく、)「畢竟内国に財なきに非ず、財を集むるの方便なきのみ。政府に国財を集むる能はざるは、民心を収むるの法、如何にして可ならん。唯国会開設の一策あるのみと奉存候。」

 「紙幣の一事は唯焦眉の急のみ。此急を救ひ終りて益国事の改進に着手し、陸海軍を皇張し、海岸の防禦を厳にし、内には大に鉄道を築造し、外には盛に郵便汽船の線路を広め、製作工業の道を勧めて商売貿易の法を改革し、外国の人をして一毫の権力を濫用せしめず一銭の利益を押領せしむることなからんを期するのみ。乍恐政府の御趣意とて此外には有之間敷、即ち官民一般の接点なり。政府之を欲し、民心亦熱し、之に加ふるに時勢の切迫止むを得ざる事情あり、国会開設今日已に晩(おそ)しとするも尚早と云ふ可からず。国会今日に開設す可き也。」