しみじみとをんなに口觸るかなや2022/07/27 06:59

 北杜夫の「黄いろい船」は、12年働いた会社を整理されて、失業保険を受け取っている男の話だ。 妻と4歳の娘がいる。 この妻がおだやかで、人をなだめるために生れてきたような女だった。 「みんな運よ。じきに今度はいい運がころがりこんでくるわ」 働くのが厭になった、と言うと、「それじゃ、当分ぶらぶらしていなさいよ」「あたしがまた働くわ」「あなた、本当に当分のんびりしてらっしゃいよ」などと言う。

 職安の帰りに入った床屋の週刊誌に、「夢の飛行船を呼ぶ男」という記事があった。 「こういう夢はいいな」「こういう仕事なら、おれは働いてもいい……」と思う。 彼が生れるまえ、ツェッペリンが日本にきたことがあって、今はいない父がその姿を目撃していた。 男が少年になってからよく話してくれたものだった。 いや、もっとずっと古く、飛行船は日本の空を飛んだことがある。
 そう北杜夫は書いて、短歌を二首引用している。 それが、この小説の題名になっているわけだ。
  まぼしげに空を見入りし女あり黄色のふね天馳せゆけば
  二月ぞら黄いろい船が飛びたればしみじみとをんなに口觸るかなや

 私は、この短歌がおそらく斎藤茂吉のものだろうと思って調べると、案の定、『赤光(しゃっこう)』にあった。 この文庫本に収録された「死」は、父斎藤茂吉について書かれたものだ。 そこに、こうある。 終戦の年、5月に家が焼け、松本に行くことになった。 「家が焼けてから世話になった親類の家にたまたま父の歌集があった。『寒雲』という歌集を貰って私は信州へ発った。」「私はそれまで文学書をほとんど読まなかったし、まったく父の歌など読んだことがなかった。本棚に斎藤茂吉著『長塚節』という書物があるのを見、それを長塚節(ぶし)とよみ、はて父は歌人の筈だが民謡の研究でもしたのかしらんと思ったほどである。」 「多分に感傷的な気分で、私は父の歌を読んだ。こう書くのは恥ずかしいが、それは生まれてはじめての打震えるような読書体験といってよかった。大半が青春期の感傷であろうが、父は私の前で唐突に大きく変貌した。おっかないやりきれない父ではなく、茂吉という歌人に変貌したのである。私は『朝の螢』という自選歌集をも手に入れてむさぼり読んでみた。この方が感銘は更に強かった。つまり私の家の横手から連る青山墓地が、私がそこに生れて厭だと思った狂院が、幼いころからのなじみ深い雰囲気が歌によまれていたからである。ほとんど幾何(いくばく)もなく、私は一人の茂吉愛好者、或いは崇拝者ともなっていた。」

 そこで、『赤光』にある飛行船の歌だが、昭和4(1929)年8月のツェッペリン号より前、大正2(1913)年2月のパルセバール飛行船を詠んだものだそうだ。 <二月ぞら黄いろい船が飛びたればしみじみとをんなに口觸るかなや>の、「口觸る」は辞書を引いてもないが、接吻だろう。 塚本邦雄が「その時の体験をありのままに写生した物なら、常世の青年も三舎を避ける(力が遠く及ばないこと)大胆不敵な快挙であろう」といい、さらに「夢幻」と「虚構」も示唆し、「興味津々の一連である」と評しているそうだ。

 『赤光』には、こんな歌もあった。 北杜夫が懐かしむ景色である。
  青山の町かげの田の畔みちをそぞろに来つれ春あさみかも
  けふもまた向ひの岡に人あまた群れゐて人を葬りたるかな

 さらには、「黄いろい船」の「口觸る」だけでなく、「星のない街路」の、「やがて彼女の唇が自分から彼の唇を求め、閉じた睫毛がふるえるのを見たとき、彼はこの娘を恋していた。」を思わせるような歌もあったのだ。
  あさぼらけひとめ見しゆゑしばだたくくろき睫毛をあはれみにけり
  ほのぼのと目を細くして抱(いだ)かれし子は去りしより幾夜か経たる