「赤光抄」斎藤茂吉の初期短歌(明治)2022/07/28 07:01

 なんと本棚に筑摩叢書の積ん読本、斎藤茂吉著『作歌四十年 自選自解』(筑摩書房・1971年)があったのである。 後記に、「昭和19年8月5日夕、強羅山荘にて」とある。 もとは、岩波書店の『斎藤茂吉全集』第20巻「歌論七」として発表されたものだそうだ。 その「後記」に、「自分の歌は、四十年のあいだどういうような発展をしただろうか。これは写生の極致にむかって、少しずつ正しい歩みをつづけたということになるだろう。」とある。

 『作歌四十年』の冒頭が、「赤光抄」だったので、それを読んだ。 歌集『赤光』は、明治38年から大正2年までの足掛け9年間の作から833[4]首を選んだものだった。 斎藤茂吉は、明治37年11月発行の正岡子規遺稿第一編、『竹の里歌』を読んで感奮し、作歌を始めようと決意し、明治38年から歌を作り始めた。 『竹の里歌』明治38年の部に、「絵あまたひろげ見てつくれる」という詞書があって、「なむあみだ仏つくりがつくりたる仏見あげて驚くところ」、「木のもとに臥せる仏をうちかこみ象蛇どもの泣き居るところ」などとあるのを模倣して、郷里金瓶村宝泉寺で毎年掛ける掛図の記憶に拠って、「地獄極楽図」という歌を作った。
  浄玻璃にあらはれにけり脇差を差して女をいぢめるところ
  赤き池にひとりぼつちの真裸のをんな亡者の泣きゐるところ
  人の世に嘘をつきけるもろもろの亡者の舌を抜き居るところ

 それから明治39年1月はじめて伊藤左千夫先生に歌を送った。 『馬酔木』の2月号に載った。 「地獄極楽図」から、もっと万葉調にゆったり行こうとする傾向を示すに至った。
  来て見れば雪消の川べしろがねの柳ふふめり蕗の薹も咲けり
  あづさゆみ春は寒けど日あたりのよろしきところつくづくし萌ゆ

 明治40年、左千夫先生が『日本新聞』紙上で募集された題詠に多く選ばれ、先生から激励もされたので、自分の歌はこういう応募歌を本として進歩した形跡がある。
  かぎろひの夕べの空に八重なびく朱(あけ)の旗ぐも遠にいざよふ
  あめつちの寄り合ふきはみ晴れとほる高山の背に雲ひそむ見ゆ

 明治41年新年の作。 いろいろ工夫して、調べも荘重に、万葉調に行こうと努力して居る。
  今しいま年の来るとひむがしの八百うづ潮に茜かがよふ
  高ひかる日の母を恋ひ地の廻(めぐ)り廻りきはまりて天新(あめあらた)なり

 明治41年秋、実際に旅行して作り、『アララギ』第一巻第二号に載った。 十首ぐらいずつ作っては左千夫先生に見てもらい、実際に作る方法について、幾らかずつ悟るところがあった。
  関谷いでて坂路(さかぢ)になればちらりほらり染めたる木々が見えきたるかも
  おり上り通り過がひしうま二つ遥かになりて尾を振るが見ゆ

 年末に卒業試問を終えた、明治43年の雑歌。 表現の技巧も幾らかずつ自由になり、歌壇の雑誌などものぞき読みして、兎も角これだけの力量を得るに至った。
  墓はらのとほき森よりほろほろと上(のぼ)るけむりに行かむとおもふ
  木のもとに梅はめば酸しをさな妻ひとにさにづらふ時たちにけり

 明治44年作、大学を出て、東京府巣鴨病院医員となった。 このあたりから歌風もいくらか変わり、左千夫先生が賛成せられぬので、議論したりした。 兎に角従来の根岸派同人の作以外に一歩出ようなどいう気持を示した作だと謂っていい。
  雨にぬるる広葉細葉の若葉森あがいふこゑのやさしくきこゆ
  おのが身をいとほしみつつ帰り来る夕細道に柿の花落つも
  少年の流されびとをいたましとこころに思ふ虫しげき夜に

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