三田あるこう会「日光道中・草加松原」2022/07/06 06:39

 7月3日、第546回三田あるこう会があり、「日光道中・草加松原」を歩いてきた。 猛暑日が連続する中、台風4号が発生した影響で、たまたま一服、最高気温31度予想ということで、いくらか良いかという日になった。 東武スカイツリーライン「独協大学前」駅集合、以前は「松原団地」と言っていた駅だ。 駅名の改称に、独協大学は3億円を負担したとか。 東武スカイツリーラインは、中目黒から日比谷線が直通運転しているから、自由が丘から1時間15分ほどで着く。 昔から「草加、越谷、千住の先」と言っていた。 結婚したての頃だったか、家内の友達が結婚して竹ノ塚に家を持ったというので訪ねたことがあった。 雨の日、長靴を履いて駅まで送って行き、ご主人は革靴に履き替えて出勤するという話だった。 それが今は一変、小菅を過ぎると、大きなマンションやショッピングセンターが立ち並ぶ。 「独協大学前」駅前にも、タワーマンションや近代的な図書館があった。

 「独協大学前」駅前から北へ2信号で、旧日光街道・県道足立越谷線に出る。 前に百代橋(ひゃくたいばし)という大きな太鼓橋が観光用に作られている(あとで、もう一本の矢立橋を昇り降りした)。 それぞれの橋名は、「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」「行く春や鳥啼き魚の目は泪、これを矢立の初めとして」にちなむ。 百代橋の手前に「松尾芭蕉文学碑」、元禄2(1689)年3月27日、江戸深川を船出して千住で上陸、見送りに来た人たちと別れを告げ、「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早(草)加といふ宿にたどり着きにけり」と、『おくのほそ道』に記した。 『おくのほそ道』という作品では、草加宿に泊まったことになっているが、同行した河合曾良の「旅日記」では粕壁(春日部)まで行ったとあるそうだ。 今の距離で30キロぐらいあるか、餞別にもらった肩の重い荷物に苦しみながらというが、たいへんな健脚である。 ちいさい声で言おう、松尾芭蕉、草加松原の景色など味わっている余裕はとてもなかったかもしれないけれど、草加市に観光地を残してくれたというわけだ。 ここ綾瀬川沿いの「草加松原」、現在634本ある中に江戸時代からの古木が60本ほどあり、国指定名勝「おくのほそ道の風景地『草加松原』」に指定されている。

「漸草庵 百代の過客」のエゴノキ2022/07/07 06:54

 百代橋の下をくぐる道は、綾瀬川を松原大橋を渡り、草加市文化会館の右手川沿いに、ドナルド・キーンさんが命名したという「漸草庵 百代の過客(ぜんそうあん はくたいのかかく)」という茶室四間とお休み処の数寄屋建築があった。 外に樽型の牢屋のようにも見える小さな茶室もある。 百代橋には「ひゃくたいばし」とあり、ここは「はくたい」、キーンさんが正しいのだろう。 「漸草」の意味を草加市のホームページなどで探したが、わからなかった。 漢和辞典の「漸」の意味は、(1)ようやく。だんだん。次第に。(2)進む。次第に進む。じわじわ進む。(3)易の一つ、順を追って進む象(かたち)。(4)きざし。(5)通す。通ずる。(6)のびる。成長する。(7)順序。段階。 「〝草〟加市が次第にのびる、成長する」という意味だろうか。

 漸草庵の庭に実をたくさんつけている「エゴノキ(えごの木)」があった。 岡部さんが「チシャ」とも言うと教えてくれた。 「チシャ」はキャベツだとも言うから、それは「レタス」だろうと、私が言った。 落語の「夏の医者」で知っていたからだ。 暑い夏の盛り、無医村カシマ村のタゼエモンが倒れて、息子が隣村の一本松にゲンパクロウという医者を迎えに行く。 山越えの途中で、息子と医者がウワバミに呑まれてしまうが、医者は薬籠の下剤ダイオウの粉を撒いて、脱出する。 タゼエモンを診て、チシャ(今風に言えばレタス)の胡麻よごしの食べ過ぎの、ものあたりだと診断するが、薬籠をウワバミの腹の中に忘れて来ていた。 気丈な医者は、もう一度、ウワバミに呑まれに行く。 ウワバミは、大木にひっかかった形で、げんなりしていた。 医者が事情を話して、交渉するが、ウワバミは「もうダメだよ、夏の医者は、腹に障る」。

 なお、「えごの木」が「チシャ」だという件だが、「エゴノキ」で検索したら、エゴノキ科の落葉小高木、初夏、白色の小さな花をたくさん咲かせ、それが実になる、「エゴ」は実を口に入れると「えぐい」から来ており、別名チシャノキ、チサノキ、歌舞伎の「伽羅先代萩」に登場する「ちさの木(萵苣の木)」はこれだとあった。 一方、レタスの「チシャ(萵苣)」はヨーロッパ原産のキク科の野菜、韓国料理ではサンチュと呼ぶ。 同じ名でまぎらわしいが、木とは別物だ。 なお、キク科、植物の科としては最大で、一年草から大高木まであるというから、キク科だから草というわけではない。

 近くに、正岡子規の句碑<梅を見て野を見て行きぬ草加まで>があった。 実際には見なかったが、近辺に高浜虚子の句碑<巡礼や草加あたりを帰る雁>、水原秋桜子の句碑<草紅葉草加煎餅を干しにけり>や<畦塗りが草加の町をかこみける>があるそうで、所々に松山市のような「投句箱」があった。 これらの俳句は、都会化、さらには長靴必須以前の、地域の景色と歴史を歴然と示していた。

大塚宣夫さんの『非まじめ介護のすすめ』2022/07/08 07:03

 大塚宣夫さんが、近著『医者が教える 非まじめ介護のすすめ』(PHP研究所)を送ってくれた。 さっそく、第1章「医療、経済、社会、高齢者、介護。コロナ禍が明らかにしたもの」を読む。 先日紹介した歌代朔さんの『スクラッチ』(あかね書房)が、コロナ禍の中学生を扱っていたが、こちらはコロナ禍の高齢者、つまり私などを扱っている。

 「会って、話して、笑って、歌う。それが、高齢者にとっての最高の老化防止」なのに、コロナ禍によって日常生活が一変した、それも三年という長期に渡って。 ごく当たり前に、何気なく行われていたこと――たとえば人との接触や会話、移動など――の多くが制限された。 私なども、毎月国立小劇場の落語研究会に仲間と通い、その前に天ぷら屋さんで軽く一杯、楽しく近況報告し合ってから、劇場にくり込む、悦楽の機会を奪われてしまった。 2020年2月26日の第620回落語研究会は、安倍首相が新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、多数の観客が集まる国内のスポーツ・文化イベントの開催を今後2週間自粛するよう要請した日であったが、TBSは開催を決めた。 その開催を最後に、公開の公演は行われず、収録だけが行われて、2年4か月になる。 天ぷら屋さんも大変だ、無事だろうか、などと思う。

 大塚宣夫さんは、コロナ禍が明らかにしたものとして、つぎの三つを挙げる。(1)いかに人間が「今日までの生活が明日も続く」という前提で暮らしてきたか、ということ。(2)社会活動の多くは『人との触れ合いや不要不急な部分で成り立っている』ということ。飲食、旅行、スポーツ、演芸、音楽や芸術など、今苦境に陥っている業界がいかに私たちの暮らしを彩ってきたのか。(3)高齢者の生活の一変ぶり。外出の大部分が不要不急。ましてや、今回の新型コロナウイルス感染症では高齢者が重症化しやすいとなれば、危険を避けるため、あるいは周囲に迷惑をかけたくないという思いから家にこもるしかない。

 表紙には、「コロナで死ぬか、家ごもりで死ぬか」とある。

80歳、大塚宣夫さんの実感2022/07/09 07:01

 『医者が教える 非まじめ介護のすすめ』の大塚宣夫さんは、高校の同級生だ、80歳になったという。 60歳を過ぎて、まったく仕事を辞めて、閑居生活に入った私などとは、比べることはできないけれど、この本の中で、こんな正直な告白をしている。 大きな病院を二つも経営しているのに、50歳過ぎに一度、ある日ふと、なんとなく頑張りがきかない、目の前の課題に立ち向かう気力がない自分に気づいたという。 そして、理由もなく、ふさぎこんでしまう。 1年程度で収まったが、それを機に、徐々に下降線……。 ゆるやかにその変化を実感する60代、70歳を経て、75歳。 75歳を節目に、目に見えて気力・体力ともにガタッと落ちた。

 この変化は明確で、頑張れないことはもちろん、パッと言葉が出てこなかったり、食べる量や飲む量が一気に減ったり、何かしら大きな病気が発覚したり、人によっては認知症の問題も身近になるなど、現代においてはだいたい75歳過ぎからが、いわゆる本当の意味でも〝老後〟と考えていいかもしれない、という。

 家族やスタッフは、大塚さんの健康を気遣って、サラダを食べろ、野菜が足りない、脂や酒は控えめに、朝食は食べていけと、たくさんアドバイスしてくれる。 でもね、80歳を過ぎて栄養バランスや健康に気遣ったとして、その効果がでるのは数年先、寿命には大差ないだろう。 暴飲暴食できる体力も胃腸も強くないので、好きなものを好きなだけ食べさせてくれ、これが本音だ(笑)という。

 以前、「自分は十分長生きしたから、いつ死んでもいい」が口癖の93歳の女性がいた。 それなら、明日お迎えが来てもいいかと聞くと、「それはちょっと困る。いつ死んでもいいのだけど、心の準備があるから3か月は欲しい。欲を言えば3年ですかね。」 大塚さんは、高齢者の本音を垣間見た思いがしたという。

万事、60点くらいでよし、非まじめ介護の極意2022/07/10 07:09

 大塚宣夫さんは、30代のころ、「現代の姥捨て山」のような老人病院の実態を知り、衝撃を受け、せめて自分の親だけでも安心して預けられる施設をつくりたいと、1980年に青梅慶友病院を、2005年によみうりランド慶友病院を開設、これまで2万人の高齢者の方の最晩年に関わり、1万人の最期を看てきた。 ずっと追求しているのは「究極の終の棲家」。 人生最期の時間だって、大切な人生の一場面。 医療よりも介護、介護より豊かな生活環境、つまり「安心して穏やかに過ごせる場所」が必要なのではと考えてやってきた。

 この本に、現代は、ふたりにひとりが認知症になる時代だ、とある。 大塚さん自身、80歳を超えた今、思うのは、本当の意味で「安心して穏やかに過ごせる」とは、どういうことなのかということだ、という。

 高齢者にとって、いちばん嫌なのは、自分の生活のリズム、自分のやり方を崩されることだ。 何十年もかけて、自分なりに築いてきた生き方だ。 そう簡単にかえることはできない。 高齢者や介護される側が思っているのは、「だれかの役に立てたらうれしい」という気持ちだ。 その気持ちは、それなりに残っていて、「役に立つ」は元気の源のようだ。 介護は、実際のところ、世間からみて「もう少しやってあげてもいいのでは……」くらいが落としどころ、60点くらいの出来で十分。 まさに「非まじめ介護」だ、という。

 介護における最大の敵は、お互いの甘えと、過度の期待、善意の押し売りだ。 「よかれと思って……」この考えはいったん横に置いておこう。 やり過ぎてはいけないし、完璧をめざしてもいけない。 万事、60点くらいで、よしとしよう。 これが、非まじめ介護の極意だ、そうだ。

 この本には、大塚さんらしい、具体的なすすめもある。 「お金は全部この世で使いきりましょう」 介護される人は、「数千円のポチ袋を渡す(態度)とありがとう(言葉)で示し、介護したくなる仕組みをつくる。」 「家族、親戚、行政、プロ。使えるものはすべて使って、ひとりあたりの負担を減らす」