虚子と修善寺新井屋を結びつけたもの2022/08/11 06:50

 本井英主宰の「大正四年冬の虚子」のつづき。 「於糸サン」というのは、この『道草』の存在を本井英さんに通知してくれたS氏の祖母に当たる、高田きぬ(旧姓飯山)さん、明治31年2月生まれの、当年、数え年18歳、同じ修善寺の老舗店の娘さんだった。 別に彼女が虚子から贈られた短冊(写真も掲載)があり、「我を恋ふる少女あはれや黄鶺鴒(せきれい)」という虚子作と思われる一句が書きつけられている(虚子の『年代順虚子俳句全集』等には見当たらないそうだ)。 本井さんは、「仮にその句中の「少女」が「於糸サン」であったとしたら、その娘はあたかも渓流の「黄鶺鴒」のように、事に応じてシャキッと振舞う、気っ風の良い爽快な娘であったに相違ない。」とする。

 本井さんはまた、「新井」の中で、「於糸」の名で呼ばれていたことは、ことに虚子に気に入られていた女中であった可能性も高い、と言う。 なぜなら、「糸」は虚子夫人の名前であり、その「糸」の親友であった新井の女将相川つるは、そのことを熟知していたに違いないからである。

 虚子と修善寺新井屋との、そもそもの関係については、『虚子自伝』(昭和30年・朝日新聞社刊)中の「新井屋」が簡潔で分かりやすい、という。 駿河台にあるニコライ堂、ハリストス正教会に附属している神学校(ニコライ女学校)で、その6回目の生徒の中に、伊豆の修善寺から来た相川つると、上州の前橋から来た大畠いとがいた。 二人は同じクラスの中でも気の合う仲間だった。 この二人は76歳の今日まで、不思議に親しい交流をつづけている。 相川つるは新井屋の女将であり、大畠いとは虚子夫人という訳だ。

 明治32年、虚子は劇しい大腸カタルをやり、あるいはコレラではないかという疑いも受け、当時駿河台にあった山龍堂という病院に一と月入院、強心薬を飲みつづけてようやく一命を取り止めた。 退院してからも暫く静養する必要があるというので、夫人の繫がりのあった、この修善寺の新井屋に一か月ばかり逗留した。

 虚子は修善寺で大いに骨を休め、「ホトトギス」明治32年7月号には「浴泉雑記」なる写生文を執筆している。 この作品で虚子が文章表現の新機軸を手に入れたことは、既に本井さんの『虚子散文の世界へ』(ウェップ)で触れられていた。 この「浴泉雑記」は、修善寺温泉を「エデンの園」に擬えた夢のような文章だったが、さらに明治32年11月号の「霊泉余滴」では当時の虚子の宗教観を大いに語った。 こうして、修善寺滞在中の虚子の心が「宗教」に傾くのは、宿の女将である相川つると虚子の妻糸を繋ぐ大きな絆に「ハリストス教会」のあったことを忘れてはなるまい、と本井さんは指摘している。 糸の父、元前橋藩士大畠豊水一家は熱心なハリストス正教会の信徒で、糸の姉「たま」の婿養子斎藤久吉はハリストス教会派の伝道師であった。