松根東洋城、漱石、虚子との関係2022/08/16 06:32

 松根東洋城が、12日の本井英さんの「大正四年冬の虚子」と、13日の夏目漱石の「修善寺大患」に出てきたが、よく知らないので、ちょっと調べてみることにした。 前者では、明治41(1908)年9月に修善寺滞在中の虚子に、14日、東京の松根東洋城が電報で「センセイノネコガシニタル ヨサムカナ」と漱石の「猫」の死を伝えてきたのに対して、「ワガハイノ カイミヤウモナキ ススキカナ」と返電している。 後者では、明治43(1910)年6月18日に入院していた長与胃腸病院を7月31日に退院した漱石に修善寺温泉での湯治を勧めたのが松根東洋城で、御殿場での待ち合わせに手間取ったのが、漱石の大患の引き金になった。

 松根東洋城は、明治11(1878)年2月25日に、松根権六(宇和島藩城代家老・松根図書の長男)の次男として東京築地に生れた。 母は旧宇和島藩主伊達宗城の三女敏子だそうだ。 本名は豊次郎で、俳号「東洋城」は、そのもじり。 松山の愛媛県尋常中学校時代に夏目金之助(漱石)に英語を学び、卒業後も交流を持ち続け、俳句の教えを受けて、終生の師と仰いだ。 漱石に紹介されて正岡子規の知遇を受けるようになり、子規らが創刊した『ホトトギス』に加わった。

 旧制一高、東京帝国大学から転じて京都帝国大学仏法科を卒業、明治39(1906)年宮内省に入り、式部官、書記官、会計審査官等を歴任、大正8(1919)年退官。 明治43(1910)年、漱石を修善寺療養に誘ったのは、自身が公務で修善寺に長期逗留していたからだという。

 明治35(1902)年の子規没後『ホトトギス』を継承していた高浜虚子は、『ホトトギス』に連載した夏目漱石の「吾輩は猫である」の好評に刺激を受けて、写生文による小説を書き出し、明治41(1908)年、東洋城は、虚子の小説転向で『国民新聞』俳壇の選者を受け継ぎ、河東碧梧桐の新傾向俳句に対立した。

 大正3(1914)年、宮内省式部官のとき、大正天皇から俳句について聞かれ、「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことが有名になった。 ちょうど「大正四年冬の虚子」の時期のことになる。 大正4(1915)年に俳誌『渋柿』を創刊主宰。 大正5(1916)年、高浜虚子により『国民新聞』俳壇の選者から下ろされ、代わって虚子が選者になったことを契機に『ホトトギス』を離脱した。 以降、虚子とは一切の付き合いを持たなかったという。 大正8(1919)年に公職を退き『東京朝日新聞』俳壇の選者となる。

 虚子らが掲げる「俳句こそは花鳥諷詠、客観写生」という理念に飽き足らず、俳諧の道は「生命を打ち込んで真剣に取り組むべきものである」として芭蕉の俳諧精神を尊んだ。 東洋城が週に一度開催した句会には、長谷川零余子、岡本松浜、野村喜舟、飯田蛇笏、久保田万太郎、小杉余子らの俳人が集まった。 各地で渋柿一門を集めて盛んに俳諧道場を開き、人間修業としての「俳諧道」を説き子弟の育成に努めた。 昭和29(1954)年日本芸術院会員。 昭和39(1964)年10月28日没、享年86歳。

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