「キアラの会」と雑誌『風景』2022/08/30 07:02

 吉行淳之介が編集を担当する『風景』という雑誌が出てきたので、『八木義徳 野口冨士男 往復書簡集』(田畑書店)から、雑誌『風景』について、見ておきたい。 昭和24(1949)年8月2日、「キアラの会」が舟橋聖一、豊田三郎、野口冨士男、船山馨、北條誠、三島由紀夫、八木義徳によって結成された。 のちに、有吉佐和子、有馬頼義、井上靖、遠藤周作、北杜夫、源氏鶏太、澤野久雄、芝木好子、林芙美子、日下令光、三浦朱門、水上勉、吉行淳之介らが加わり、有吉、北、三島が中途で退会。 以来10年ほどの間に、「キアラの会」は、舟橋聖一の家や新宿の紀伊国屋、銀座倶楽部、新橋クラブ、柳橋いな垣、柳橋亀清楼、向島水のとで集まったり、国技館相撲見物、文学座で三島作「邯鄲」や「夜の向日葵」観劇、新橋演舞場「東をどり」、歌舞伎座観劇、映画の試写を観たり、熱海・箱根に旅行したりしている。

 昭和35(1960)年1月に、紀伊国屋書店の田辺茂一から「キアラの会」の雑誌発刊の話が出る(編集権は「キアラの会」で、田辺が資金を出したと思われる)。 5月3日になって、柳橋いな垣の会で、雑誌を野口冨士男の単独編集とすることが決定、6月21日の井上(靖)邸での会で創刊号の目次が発表された。 昭和35(1960)年10月『風景』創刊。 表紙絵もカットも、風間完が担当した。

 八木義徳と野口冨士男の往復書簡で、『風景』の初期に八木が書評を書いていたことがわかる。 創刊号は、北杜夫の『夜と霧の隅で』一作のみを評した。 八木は、野口宛の10月4日の手紙に、「『風景』という雑誌が『ワセダ文学』や『三田文学』のような雑誌でないことはぼくも十分承知しているつもりです。そして、この雑誌の編集は『ワセダ文学』や『三田文学』などの編集よりずっとむずかしいだろうとも、ぼくなりにわかっているつもりです。/しかしこの雑誌に たまたま中山(義秀)・丹羽(文雄)の両氏(ワセダ派の二先輩)の本を同時にとりあげたことがぼくの「党派意識」のあらわれとしてうけとられ、それに対して、こういう〝つよい〟言葉で一種の戒告をあたえられると、野口のことばにはたいていいつも無條件に〝降参〟してきたぼくも「ちょっとまってくれ」といわざるをえない。」と書いている。

 註記によると、『風景』創刊第2号の11月号の八木の書評が、早稲田派の重鎮である中山義秀『二つの生涯』と丹羽文雄『人生作法』だったため、野口が八木を咎めたように見えるが、実情は舟橋聖一と丹羽がライバル関係にあり、同じ雑誌に二人の作品が掲載されると、舟橋は「目次」の舟橋・丹羽の文字の大きさを物差しで測っていたというような関係だったことを、野口は言いたかったのではないかと思われる、という。 この時期の野口は、『風景』創刊に追われた上、編集助手も素人同然だったため、催眠剤の服用をまたはじめるなど心身ともに疲労してナーバスになっていたそうだ。

 野口は、昭和37(1962)年4月号まで『風景』編集長を務め、二代目・有馬頼義、三代目・吉行淳之介、四代目・船山馨、五代目・澤野久雄、六代目・八木義徳、七代目・北條誠、八代目・野口(再)、九代目・八木(再)、十代目・吉行(再)で終刊。

 昭和51(1976)年1月、舟橋聖一の急逝により「キアラの会」解散、『風景』は4月号で廃刊となった。

 「キアラの会」の「キアラ」の意味がわからず、野口冨士男さんのご子息平井一麥さんに尋ねた。 発音は「キャラ」らしく、わからないけれど、「キヤラ」との記述もあり、舟橋聖一邸に香木の伽羅の木があり、伽羅の間もあったようで、そこから来ているのかもしれない、という話だった。

コメント

_ 轟亭(雑誌『風景』の資金) ― 2022/08/30 18:14

「田辺茂一が資金を出したと思われる」と書いたが、平井一麥さんから、関東の大手書店の親睦会「悠々会」(田辺も一員)が、本の割引きが出来ない代わりに、雑誌を出す資金を出したと、ご教示頂いた。

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