辻村史朗さん、ひたすら陶器をつくる日々2022/09/09 07:10

 辻村史朗さん、アメリカのメトロポリタン美術館の学芸員は「アメリカやヨーロッパでも有名」と言ったけれど、私は知らなかった。 7月24日の『日曜美術館』「陶の山 辻村史朗」を見て、「等々力短信」に書いた杉本博司さんの「江之浦測候所」の回と同じように、深く感じるところがあった。

 小野正嗣さんが、奈良市内から車で30分ほどという山の中に向かった。 上半身裸の人が出てきて、着る物はあると青いシャツをかぶった。 この人が、荒々しさと静けさが同居する唯一無二の作品で知られるという陶芸家の辻村史朗さん、20代でこの山中に廃材をもらってきて自分で自宅を建てて以来50年、2万坪の敷地内に作業場、茶室、七つの窯を構えて、師につくことなく一人で土と格闘し、ひたすら陶器をつくる日々を送っている。

 小野さんと歩くこの山の中には、生み出した数十万もの焼き物が無造作に置かれている。 雨や雪にさらされ、枯葉や土に埋れたり苔が生えたりしている。 ご本人は、どこに何があるかきちんと把握しているという。 「焼き物の真骨頂は、茶碗。」 信楽、備前、唐津、伊賀などあらゆる茶碗に挑んできた辻村さんが、今最も心血を注いでいるのが志野。 作陶の道を究め、挑み続ける創作の現場に、カメラが密着した。

 辻村史朗さんは、1947(昭和22)年奈良県御所に牧畜を営む家の4男に生まれて「史朗」、高校時代までこの地で過ごし、1965(昭和40)年美術大学で学ぶため上京するが石膏デッサンやスケッチなどの受験勉強に興味を失い断念。 一方、画家(油絵)を志す気持は高まる。 高名な画家に弟子入りを乞うが、門前払い、東北を旅行した後、東京の日本民芸館で偶然、大井戸茶碗「山伏」に出会い、深い感動を受けて、人生を大きく変える。 1966(昭和41)年、19歳から21歳までの3年間、奈良にある禅寺、曹洞宗三松寺に住み込んで修行。 1968(昭和43)年、実家に戻り、家業の牧畜を手伝い、独立するための資金をつくる。 依然画家を目指していたものの、次第に油絵の具の質感に違和感を覚え、同時に焼き物の持つ静かな肌合いにひかれるようになり、夜はリヤカー等の車輪を利用して作った自作のロクロで茶碗、花入れなど手あたり次第に轢くようになる。

 1969(昭和44)年、三枝子さんと結婚。 この奥さん、番組に時々顔を出したが、自然体で好い表情の、素晴らしい人だった。 作った焼き物を京都の門前などに茣蓙を敷き、売りながら生計を立てるようになる。 奥さんと橋の下などで泊まって、寒かったと話していた。 1970(昭和45)年、奈良水間町の山中に土地を求め、2か月を費やし独力で家を建てる。 材料は民家や寺などの古材、廃材を使用。 家を建てると同時に自宅の周辺に次々と窯を築いた。

 「小屋を造ることも、絵を描くことも、焼物をすることも、売りに行くことも、自分にとっては同じ一つのことなのです。」  (辻村史朗「器と心」)

 ところで、1969(昭和44)年の結婚、何とわが家と同じだった。

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