「戸越銀座」と「五反田」の間に2022/09/16 07:07

 戸越銀座といえば、昭和23(1948)年4月、延山小学校に入学した時の担任だった石井ふさ先生は一年生だけだったと思うのだが、退職されて、戸越銀座に洋裁学院を開かれた。 一度だけ、遊びに行ったように覚えている。

 中延のわが家は、中延駅に近く、第二京浜国道から中延駅側に三軒ほど入ったところにあった。 昭和29(1954)年に明治学院中学に進んで、荏原中延駅から「五反田」まで池上線で行き、五反田で途中にカサブランカというキャバレーのある元白木屋ビルの階段を降りて、4番の都電に乗り換え白金猿町を通り二本榎まで通った。 猿町への坂の左手、某工業所の塀に大きく「給水衛生暖房冷房換気工事設計施工」の広告があった。

 明学で日曜日に教会へ行くように勧められ、自転車で第二京浜国道沿いの桐ヶ谷の坂の上のルーテル教会へ2年ほど、通った。 第二京浜を五反田の方へ進むと、東急池上線の戸越銀座駅からの商店街と交差した少し先の左側、石垣の上に星新一さんの家があり、桐ヶ谷の坂を上って下り中原街道とぶつかった先に、今はTOC東京卸売センターになっている星製薬があった。 子供の時から星製薬の名は、身近な存在だった。 中原街道を旗の台方面へ戻ると、右側に星薬科大学や星講堂のドームも見える。 昭和27年の日本の独立による接収解除後だと思うが、星講堂でボクシングの試合を観たこともある。

 最相葉月さんの『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社)に、星新一さんが昭和24年9月から25年7月まで(23、4歳の頃)毎週日曜日にルーテル教会に通ったことが日記から判明しているとある。 私が通っていたルーテル教会が、星さんが通ったルーテル教会かどうかはわからないので、ネットで調べると、西大崎(?、と書いてあった)のルーテル五反田教会は、昭和24(1949)年米軍の援助でジュラルミン製(これはかすかに憶えがある)礼拝堂を献堂し、幼稚園を併設していたとある。 ルーテル教会は、ほかに近くにないから、星新一さんが通ったのは、おそらくこの教会だろうと思われた。

 明治学院中学3年生の時には、後に星新一さんが亡くなった高輪の東京船員保険病院(現・せんぽ東京高輪病院)では、高校受験用の身体検査を受けた。

 ルーテル教会へは、自転車で星新一さんの家の前を通り、坂を上った。 私が知っている頃はもうなかったが、坂の上のあたりには昔、池上線の桐ヶ谷という駅があったと聞いていた。 地図を見ると坂の上の第二京浜と交差する通りは、左に行くと桐ヶ谷斎場へ行く桐ヶ谷通り、右は百反通りである。

 東急池上線・桐ヶ谷駅は、戸越銀座と大崎広小路の間、現在の品川区西五反田8-12付近にあった。 昭和2年、雪が谷~桐ヶ谷間の部分開通に合わせて開業。 昭和20年営業休止、昭和28年廃止。 その駅跡を見に行った写真がネットにあった。 電車から壁面をよく見ると、ホームから駅出口への跡が残っているのを見ることができるらしい。

のすたるぢや、萩原朔太郎<等々力短信 第1159号 2022(令和4).9.25.>2022/09/16 07:09

 江國滋さんが亡くなったのは、1997(平成9)年8月10日だから、25年も経ったことになる。 何年か後に、本棚を取り替える機会があり、手持ちの江國滋さんの著書を、世田谷文学館に相談して、納めさせてもらった。 芦花公園駅近くの世田谷文学館はまことに律儀で、その後今日まで、展覧会の案内と招待券を送ってくれている。

 10月1日(土)から来年2月5日(日)まで、「月に吠えよ、萩原朔太郎 展」が開催される。 亀山郁夫館長が、巻頭エッセイ「遠き山に日は落ちて」を「世田谷文学館ニュース」80号に書いている。 夕方5時から町に流れる「家路」は、幼い頃から耳になじんだメロディだが、老いはじめた半世紀以上の時の流れのなかで、この音楽のもつ幽玄な何かが確実に朽ち果てていったことを実感する。 朽ち果てていった何かとは、ほかでもない「ノスタルジア」の感覚である、という。 やはり半世紀ぶりに再会した萩原朔太郎の「純情小曲集」の「自序」には、「あるひとの来歴に對するのすたるぢや」を「追憶」するために書いたとあり、「あるひと」とは朔太郎自身だとも言っている。 その「純情小曲集」から、亀山さんが高校2年生の時、フランス文化に漠とした憧れにひたる心を、心地よく慰めてくれた詩というのを、引用している。

 ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し/せめては新しき背廣をきて/きままなる旅にいでてみん。

 私は、黄色くなった角川文庫の『現代詩人全集』第二巻近代IIで、萩原朔太郎を読んだ。 「ふらんすへ行きたしと思へども」の「旅上」には、後半があった。

 汽車が山道をゆくとき/みづいろの窓によりかかりて/われひとりうれしきことをおもはむ/五月の朝のしののめ/うら若草のもえいづる心まかせに。

 詩集「宿命」に、「郵便局」という散文詩があった。 「郵便局といふものは、港や停車場やと同じく、人生の遠い旅情を思はすところの、悲しい〝のすたるぢや〟(傍点)の存在である。」「郵便局! 私はその郷愁を見るのが好きだ。生活のさまざまな悲哀を抱きながら、そこの薄暗い壁の隅で、故郷への手紙を書いてる若い女よ! 鉛筆の心も折れ、文字も涙によごれて亂れてゐる。何をこの人生から、若い娘たちが苦しむだらう。我々もまた君等と同じく、絶望のすり切れた靴をはいて、生活(ライフ)の港港を漂泊してゐる。永遠に、永遠に、我々の家なき魂は凍えてゐるのだ。」

 朔太郎は『月に吠える』の序文に、「人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である」、だが人間同士に共通するものを発見するとき「我々はもはや永久に孤独ではない」とも書いた。 手紙を書きましょう、短信への返信から。