世界は代官山から始まった、世界遺産登録へ2022/09/25 07:18

 代官山ヒルサイドテラスの朝倉健吾さんは、大学の同級生で、『代官山ヒルサイドテラス通信』を送ってくれる。 2022年秋冬の第18号の、「巻頭言」はこうだ。

都市に棲むこと、
ヒルサイドテラスの究極のテーマは、
代官山に数百年住み続ける一族が、
丘の稜線、1500年前の古墳、齢数百年の大樹を活かしながら
棲み続けることにありました。

今では「伝説」として語られる
アートプロジェクトに関わった美術青年は、
代官山界隈を逍遥し、
再開発で消えていった、大正期に建てられた
同潤会代官山アパートをつぶさに観察し、
やがて横浜で、歴史的建造物や空きビルの数々を
アーティストや建築家たちの「棲みか」としました。

「伝説のプロジェクト」を見ることができなかった高校生は、
時を経て、ヒルサイドテラスを自らの文化遺産と思い定め、
その世界遺産登録に向けた道を、一歩一歩、
若い人たちと歩みつつあります。

「良い建築の周りの人々は幸せが溢れ出ている。
ヒルサイドテラスの周りの人々ほど幸せな人々は見たことがない、
何しろ建築を超えて街がそこにあるのだから ――アンリ・シリアニ」

美しい街、建築、人々の生活が
一瞬で破壊されてしまう世界にあって、
この言葉を胸に刻みたいと思います。

時を超えて、
人々によって受け継がれる記憶とともに、
『代官山ヒルサイドテラス通信』第18号をお届けします。

 
前半の「美術青年」は、おそらく、この号で「越後妻有 大地の芸術祭」総合ディレクターとして知られる北川フラムさんが、「池田修さんのこと」に書いている池田修さんだろう。 横浜の再開発に関わりながら、アートのベースを作り、力のあるアーティストを応援し、海外の美術組織と深い関わりを続けたBankArt1929のリーダーだったが、今年の3月16日に64歳の若さで亡くなったという。 北川フラムさんは、ヒルサイドテラスA棟で画廊を始めた38歳の頃、1984年11月大学出たてのアーティストだった川俣正さんに依頼したところ、彼は共有ロビーとA棟全体を仮囲いし、廃材を使って文字通り≪工事中≫というタイトルの個展をやり始めた。 その川俣チームに若い人が5~10人いて、その中に池田修さんがいた。 よく働くし、礼儀正しく、そのチーム「PHスタジオ」は使い古された家具の、ダンボールのインスタレーションをやっていて、同潤会代官山アパートに関して、とても詳しかった。 川俣正さんは、2017年8月にはA棟の屋上まで使った「≪工事中≫再開」を大々的に行った。

後半の「高校生」は、おそらく、この号の初めに「地域文化遺産から世界遺産に」を書いている美術史家で建築家の山名善之東京理科大学教授だろう。 山名さんは1984年高校3年17歳の夏の暑い日、中目黒駅を降りて目切坂を登りきったところに、白いヒルサイドテラスが現れた。 吹いていた風が心地良かったのか、信号が変わるのも忘れて立ち尽くしていたという。 数カ月後、画塾の先輩に教えられた川俣正≪工事中≫(1984)を見たくて再訪したが、川俣作品は既に撤去されていて、歩道橋の上からヒルサイドテラスを冷たい風に吹かれて眺めていた。 1984年の風景は、心に染み入った自然なものとして記憶の奥底に長く残り続けている。 山名さんは今日、文化遺産としてのヒルサイドテラスの評価のための調査を早々に進めるようにと、海外の専門家や建築家たちからも求められることが増えてきたのだそうだ。

コメント

_ 轟亭(川俣正さん) ― 2022/09/28 08:06

2022年9月28日の朝日新聞朝刊、鷲田清一さんの「折々のことば」は、川俣正さんの言葉です。どこかで聞いた名前だと、思いました。ここでした。

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