勝者北条の『吾妻鏡』、敗者比企も踏まえ『愚管抄』2022/10/28 07:09

 北条氏と比企氏の戦いの経緯については、山本みなみさん(中世史研究家)の朝日新聞コラム「鎌倉からの史(ふみ)」が興味深かった。 「歴史は勝者によって作られる」というが、鎌倉後期に編纂された『吾妻鏡』は、まさに勝者である北条氏の視点から鎌倉時代を描いた歴史書だという。 一方、敗者の視点を踏まえた史料も残されていて、たとえば、比企氏に味方した糟屋氏から得た情報を基に天台座主の慈円が著した歴史書『愚管抄』がある。

 『吾妻鏡』と『愚管抄』を比較すると、二代将軍・源頼家の重病によって次期鎌倉殿の問題が浮上した点は共通するが、戦いに至る経緯は大きく異なる。

 まず、『愚管抄』は、危篤の頼家が出家し、息子一幡への継承が決定的となると、外祖父比企能員の威勢に恐れをなした北条時政が先制攻撃を仕掛けたと記す。 一方、『吾妻鏡』は、時政主導のもと、一幡と頼家弟の千幡(のちの実朝)による分割相続の決議が行われ、この事態に不満を持った能員が頼家に時政殺害を相談したところ、その謀議を政子が立ち聞きし、報告を受けた時政が比企氏討伐を決意したと記す。

 『愚管抄』に従えば、北条氏が一幡の擁立を阻止すべく、軍事クーデターを起こしたことは明白である。 『吾妻鏡』は、比企氏から仕掛けてきたように記すことで、北条氏の行動を正当化しているのであろう。

 現在、学界も『愚管抄』の方が史実に近いと見ている。 『吾妻鏡』は基本史料であるが、編纂物であるだけに利用には慎重な態度が求められる、と山本みなみさんは指摘する。