『鎌倉殿の13人』と、まじない(呪術)2022/11/08 07:13

 大竹しのぶは、『鎌倉殿の13人』で、よく「歩き巫女」の役を引き受けたものだと思う。 ものすごい顔をしている。 宮沢りえの「りく」も悪役だが、こちらはきれいな役で、『江~姫たちの戦国』(2011年)の茶々の時より年相応で、無理がなかった。

早い段階で、頼朝の弟、(阿野)全成(ぜんじょう)が鎌倉に駆けつけ、占いをし、暦をみる。 口寄せや呪詛もやる。 木曾義仲のところから人質で来て命を落とした冠者殿・源義高のことが忘れられない大姫に、全成・実衣夫婦は口寄せで義高を出すが、義高と三島の祭礼に行っていないと見破られて、全成が慌てて紫式部を出したところが、三谷幸喜らしかった。 北条と比企の対立が激しくなって、全成は、りくと北条時政に、次の鎌倉殿にと説得され、二人の依頼で頼家を呪詛するが、これが露見して頼家の怒りを買い常陸に幽閉となる。 比企能員が、実衣の命が危ないとの偽情報を流して頼家に対する呪詛を再び行わせる。 回収漏れの呪詛人形が見つかり、全成は謀叛の罪で八田知家に討ち取られることになるのだ。

第37回は「オンベレブンビンバ」という題だった。 りくは、時政を唆し、実朝に出家して、鎌倉殿を平賀朝雅に譲るよう迫ることを計画。 北条一族が集まって、仲良く「オンダラグソワカ」と唱えたのは、実はお別れ、時政はうまくいかないことを見越していた。

山本みなみさん(中世史研究家)のコラム『鎌倉からの史(ふみ)』「まじないに託した願い」(8月25日朝日新聞朝刊)によると、鎌倉で本格的に陰陽道が広まるのは、三代将軍実朝の時代だそうだ。 京から官人陰陽師が下向し、吉凶を占い、呪符や形代を用いる祭祀を行うことで、災いから将軍を守った。

突然、わが身に降りかかる災害や病、こうした自らの力の及ばない現象を目のあたりにした時、昔の人々はまじない(呪術)を使って対処した。 呪符を身につけたり、形代に罪や穢れを移して水に流したりすることで、邪気を祓ったのである。 まじないは、今日の医療や科学に代わって、あらゆる階層の人々を救済するために必要とされた。

実朝をはじめ、多くの人々を悩ませた疫病は古来、鬼や魔物の仕業と考えられていた。 鎌倉市内からは、「鬼」の文字や絵、呪文の記された木札がみつかっている。

呪文には「蘇民将来之子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)」と「急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」という二種類の定型がある。 蘇民将来は『備後国風土記』逸文にみえる伝説上の人物で、神に宿を貸した見返りに彼とその子孫は疫病の難を免れると約束されたという説話に基づく。 「急々如律令」は「速やかに鬼よ去れ」という意味だそうだ。

鎌倉では、人や鳥、舟などを模した形代や土地の神を鎮める地鎮埋納物も出土している。 これらは、鎌倉に仏教が広がる一方で、人々がまじないの世界にも生きていたことを示すものに他ならない。 まじないの成就を願う人々の思いを今に伝えている、と山本みなみさんは書いている。

わが家にも、以前京都の方に送っていただいた、赤い「蘇民将来之子孫也」のお札がついた八坂神社の「厄除け御粽(ちまき)」が、部屋の隅に架けてある。 そのためか、今のところ、コロナとは縁がない。