福沢、榎本武揚救出に老母の嘆願書を代作2022/11/22 07:13

 福沢が戊辰戦争後、新政府軍に捕らえられた榎本武揚の救出に関わった話をどこかに書いたと思ったのは、『福翁自伝』にもある有名な話だったからかもしれない。 古川節蔵が明治2年5月下旬から和田倉門内の糾問所に収監されたのを追いかけるようにして、5月18日に箱館五稜郭で降伏した榎本武揚も7月には東京に護送されて来た。

 9月初めになって、福沢のところに、静岡に転封となった徳川本家に従っていた榎本武揚の妹歌の夫江連堯則(元外国奉行)から、武揚の消息が知りたいという8月11日付の手紙が届いた。 東京にいる親戚たちに問い合わせても、新政府に最後まで抵抗した榎本と関わり合うのを恐れて、何もしてくれないというのだ。 江連が福沢を頼ったのは、福沢の妻錦と榎本家に姻戚関係があったからだと思われる。 福沢はまず、榎本の親戚たちに腹を立て、9月2日付の返信(『福澤諭吉書簡集』第1巻、書簡番号74)で、竜の口の糾問所(場所の地図入り)の様子や待遇を知らせ、薩摩の運動もあって処刑される心配はないだろう、御母堂様(榎本の母)にその旨伝え、数日福沢家に泊まっていた「今泉のおばばさん」の手紙を渡してくれ、と書いた。 榎本の母は、一橋家の御馬方の林代次郎の娘で、幕府の御徒の榎本円兵衛(『福翁自伝』による。ウィキペディアは武規(箱田良助)。他に、左太夫とも。)に嫁し、その次男が釜次郎武揚だった。 平山洋さんは『福澤諭吉』(ミネルヴァ書房)に、この「今泉のおばばさん」について、福沢の妻錦が子供の時、御徒町の榎本家に連れていってくれた「おばあさん」ではないかと推測している。 錦は幼少の時、中津藩用人今泉家の養女となっていた、その養母が「今泉のおばばさん」で、榎本の母琴と姉妹である可能性があるというのだ。 すると榎本と錦の二人は、錦が土岐家に戻る文久元(1861)年まで従兄妹の関係にあった幼なじみだということになる。

 福沢の手紙に喜んだ江連の、榎本の母琴と姉楽が東京へ出たいと言っているとの返信に、福沢が応諾、東京に来た二人は差し入れなどしていたが、母親が武揚に会いたいと言い出した。 福沢は一計を案じ、母琴の嘆願書を代作、男の手ではまずいというので、姉楽が清書した。

 「今般せがれ釜次郎犯罪の儀まことにもって恐れ入ります、同人ことは実父円兵衛存命中かようかよう、至極孝心深き者で、父に仕えては平生は云々、またその病中の看病は云々、わたしは現在ソレヲ見ています、この孝行者にこの不忠を犯すはずがない、彼(あ)れに限って悪い根性の者ではございません、ドウゾお慈悲にお助けを願います、わたしはモウ余命もない者でござるから、いよいよ釜次郎を刑罰とならば、この母を身代わりとして殺して下さい」という趣意で、わからない理屈をかたことまじりにゴテゴテあつかましく書いた。 おばあさんが哀願書を持って糾問所へ出かけたところ、これがよほど監守の人を感動させたらしく、獄窓を隔てて母子の面会が叶った。

 福沢に榎本助命のもう一つの計略があったが、それはまた明日。

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