「森村市左衛門と対米貿易」、福沢の影響2022/12/16 07:04

 12月3日は、福澤諭吉協会の土曜セミナーが交詢社であって、大森一宏駿河台大学学長の、「森村市左衛門と対米貿易―福澤諭吉の影響を受けた企業家の活躍―」を聴いてきた。 案内にあった要旨は、「幕末開港期から明治期にかけて、国際的な貿易経験に乏しかった日本が、激しい通商競争に勝利し、輸出を成長させて貿易赤字から脱却するのは、容易なことではなかった。その中にあって、陶磁器は戦前期から戦後の復興期・高度成長期にかけて、日本のきわめて重要な輸出品として外貨の獲得に貢献してきた。そして、その陶磁器輸出の拡大を推し進めた企業家の中でも、最大の立役者の一人と考えられるのが森村市左衛門である。講演では、福澤諭吉から多大な影響を受けた森村市左衛門の生涯とその経営活動をたどることによって、西欧へのキャッチ・アップ過程における企業家の役割について、考えてみることにしたい。」

 大森一宏さんは、1983年早稲田大学政治経済学部卒業、大学院博士課程を経て、日本経済史・経営史の研究から、織物や陶磁器の産地、愛知県の愛知学泉大学経営学部教授となったという。 はじめにで、森村市左衛門は、日本の自動車産業を支えている国際的な窯業企業(ノリタケカンパニー(日本陶器)、TOTO、日本ガイシ、日本特殊陶業)の源流である森村組の創始者であり、晩年には渋沢栄一と並ぶ財界の大御所として活躍した人物なのに、知名度は低いとした。 新しいものにチャレンジすることが大事で、何を成したかは言わない、名を残すのに興味を持たない人だった。

 市左衛門(幼名市太郎)は、1839(天保10)年代々の武具馬具商の森村家の6代目として江戸京橋に生れた。 数え13歳で日本橋の呉服問屋に丁稚奉公、その年の大晦日に大名行列に遭い「殺されるよりつらい」思いを体験した。それで「門閥制度は親の敵」とする福沢の思想に共鳴する心情が形成されたか、と大森さんは推察する。 横浜が開港されると、市左衛門は横浜に通い手に入れた外国商品を売る唐物屋を営んでいて、中津藩奥平家にも出入りし、そこで家老の桑名登から博識で名高い福沢を紹介された。

 幕末、日本の金銀比価は1対5、当時の国際比価は1対15。 日本の金貨は銀貨(メキシコドルなどの)と交換され、大量に海外に流失。 この状況に危機感を持ち始めた市左衛門が、福沢に相談すると、貿易を通じて外国人が持っていく金を取り返すことを勧められた。

 森村市左衛門述『怠けるな働け』東亜堂書店、1918年で、およそ、こう述べている。 福沢先生と交際し始めてから、世間の事、人間の事がだんだん分り始めて来た。 世界の大勢、国の独立は貿易を盛んにして国を富まさねばならぬ、イギリスの強い理由、国の亡びる理由、民権が起こらなければ国は起るものではない、商人が国の中心にならねば国は栄ゆるものではない。 そう聞かされて、初めて時勢というものが分った。 そこで自分は貿易という事が、国家のためにそんなに大切なものであれば、自分は国家の為に一番率先してその貿易をやろうというと、福沢先生は大変喜ばれ、いろいろ相談し、初めて米国へ種々の雑貨を輸出することになった。 自分が貿易をもって世に立つようになったのも、畢竟福沢先生の友誼の賜物にほかならないのである。

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