対米貿易、モリムラ・ブラザーズ ― 2022/12/17 07:05
大森一宏さんは、森村市左衛門が、福沢から強い影響を受けたことは、15歳年下の異母弟である豊(とよ)が慶應義塾に入学した経緯などからも窺われると言う。 幕末に渡米していた佐藤百太郎(ももたろう)が、1875(明治8)年に一時帰国して、彼がニューヨークに設立した「日本・亜米利加両国組合会社」で働く「商業実習生」を募集、福沢もその企画を支持し、実習生の候補者として豊に白羽の矢を立てる。 実際には、福沢の意を受けた慶應義塾の教頭小幡篤次郎が市左衛門を説得、助教をしていた豊の渡米が決まる。 市左衛門と豊は、1876(明治9)年に銀座に森村組を設立、貿易事業に参入した。 同年3月に豊は渡米、佐藤らと日本の雑貨を輸入販売する店を開設する。 その後、豊は佐藤とのパートナーシップを解消して独立、1881(明治14)年5月に店名をモリムラ・ブラザーズとする。 市左衛門は、森村組設立直後に参加した義弟の大倉孫兵衛とともに、東京、横浜、名古屋、京都、大阪などを往復して、骨董品、陶器、銅器、団扇、提灯、人形などを買い集めて、アメリカに送った。
大森一宏さんは今回、『福翁自伝』を念入りに読んで、こんな記述を見つけたという。 「明治十四、五年の頃」「私が日本橋の知る人の家に行ってみると、その座敷に金屏風だの蒔絵だの花活だのゴテゴテ一杯に列べてある。コリャ何だと聞いてみれば、アメリカに輸出する品だという。」「不図した出来心で、」「皆不用品だが、また入用と言えば一品も残らず入用だ」「売ると言えばみな買うがどうだ」と言うと、「その主人もただの素町人でない、なるほどそうだな、コリャ名古屋から来た物であるが、アメリカに遣ってしまえばこれだけの品がなくなる、お前さんのところに遣れば失くならずにあるから売りましょう、ソンナラみな買うと言って、二千二、三百円かで、何百品あるか碌に品も見ないでみな買ってしまったが…」
大森さんは、この相手の人を大倉孫兵衛ではないか、と推察している。 市左衛門始め福沢を先生と尊敬しているので、「お前さん」とは言わなかったろうが、それは福沢の口述だからか、と。
最近のコメント