皇室を伝統文化の擁護者に、福沢『帝室論』 ― 2022/12/22 06:57
この時期の福沢諭吉に、1882(明治15)年の『帝室論』(『全集』第五巻)がある。 それは新憲法の象徴天皇制とほとんど同じ考え方だった。 当時、国会開設を前に政党間の争いが激しくなり、皇室をその政争に利用しようとする官権党の動きがあった。 これに対し福沢は『帝室論』を著し、「帝室は政治社外のものなり」、「帝室は万機を統(すべ)るものなり、万機に当るものに非ず」、「我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり。その功徳至大なりと云ふ可し」といい、政党の争いは、火の如く水の如く、盛夏の如く厳冬の如くであろうけれども、「帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可し」と書いた。
また、福沢は『帝室論』の中で、日本の伝統文化の擁護者として、いちはやく皇室の存在を考えた。 維新後の激変の中、まさに滅亡の危機にさらされている日本固有の諸芸術を保存して、その衰退を救う役割を、帝室に期待している。 福沢の挙げている諸芸術は、書画、彫刻、剣槍術、馬術、弓術、柔術、相撲、水泳、諸礼式、音楽、能楽、囲碁将棋、挿花、茶の湯、薫香、大工左官の術、盆栽植木屋の術、料理割烹の術、蒔絵塗物の術。織物染物の術、陶器銅器の術、刀剣鍛冶の術などで、いちいち書けないけれど、まだまだ沢山あるだろうと言っている。
福沢の面白いのは、この中には今日無用のものもあろう、しかし今日無用だからといって、十年、百年、千年の後に無用かというと、必ずしもそうとはいえない、と考えるところである。 そうした無用の芸術の保護には、金がかかる、昔封建の諸侯が金に糸目をつけずに、芸術を保護してその進歩を助けたように、帝室にその役割を望むからには、第一に資本が必要だろう。 だからまず帝室費を増やすべきだという主張は、いかにも福沢らしく実際的で、「帝室の費用は一種特別のものにして、其公然たるものある可(べ)きは無論なれども、或は自由自在に費して殆ど帳簿にも記す可らざる程の費目もある可し」などは、実に粋な配慮だと思う。
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