フェノロサの生涯と日本美術保護(その2)2022/12/24 07:10

 これより先、明治15(1882)年の第一回内国絵画共進会で審査官を務めたフェノロサは、狩野芳崖の作品に注目し、以後二人は親交を結ぶ。 貧困のどん底にあって、陶器の下絵塗りで生計を立てていた芳崖を訪ね、「今後、あなたが描いた絵は必ず全て買い取ります。迷惑でなければ、絵に専念できる家も提供させて下さい。あなたほど優れた才能を持っている方が絵を描かないのは国家の悲劇です」と言ったそうだ。 芳崖の遺作で死の4日前に完成した代表作の《悲母観音像》(重要文化財、東京藝術大学美術館蔵)は、フェノロサの指導で、唐代仏画のモチーフに「聖マリア像」や近代様式を加味したものという。

 フェノロサは狩野派絵画に心酔し、当時の狩野派の画家・狩野永悳(えいとく)に師事して、「狩野永探理信」という画名を名乗ることを許されている。 フェノロサは、長男に「カノー」という名前を付けた。 同じ明治15(1882)年、龍池会(日本美術協会の前身)で「美術真説」という講演を行い、日本画と洋画の特色を比較して、日本画の優秀性を説いた。

 1897(明治30)年、約20年にわたり日本美術保護に注いだフェノロサの熱意が実を結び、政府は古社寺保存法を制定し、特に重要な文化財を「国宝」に指定し保護することになった。

 1890(明治23)年に帰国し、ボストン美術館東洋部長として、日本美術の紹介を行った。 その後、1896(明治29)年、1898(明治31)年、1901(明治34)年にも来日した。 1908(明治41)年、ロンドンの国際美術会議に出席し、大英博物館で調査、滞在中に心臓発作で急死する。 享年55歳、英国国教会の手でハイゲート墓地に埋葬されたが、生前「墓は法明院に」と願っていたので、翌年、火葬ののち分骨され、彼を仏門に導いた和尚が住職を務める三井寺・法明院に改めて埋葬された。 戒名は「玄智院明徹諦信居士」。