創業期の森村組、製陶事業への進出2022/12/25 07:52

 福澤諭吉協会の土曜セミナー、大森一宏駿河台大学学長の「森村市左衛門と対米貿易―福澤諭吉の影響を受けた企業家の活躍―」、18日から脱線していたが、その後の森村市左衛門の話に戻る。 森村組(モリムラ・ブラザーズ)は、1880年代後半になると営業利益が低下し、経営困難になった時期があったが、それを乗り切ると、さらに小売から卸売への転換、大口の顧客に対するインポート・オーダー(セールスマンが見本によってあらかじめ注文を取り付ける方法)の導入、取り扱う製品分野の開拓などの経営努力により経営基盤を強化する。

 創業期の森村組を支えた人々。 森村豊(1854~1899)…前出。

 村井保固(1854~1936)…慶應義塾に学び、1879年に福沢の世話で森村組に入社。渡米が決まり福沢に挨拶に行くと、福沢が馬で霞ヶ関に赴き、旅券の世話をしてくれたという。豊没後のモリムラ・ブラザーズを任され、生涯90回太平洋を横断、精力的に貿易事業の発展に貢献した。

 大倉孫兵衛(1843~1921)…前出。市左衛門の妹藤子と結婚、品質管理志向で森村組の商品の信用を高めた。市左衛門と孫兵衛は、貿易についての政府の補助金を断る見解(福沢の影響か)で一致、西欧社会で通用する陶磁器の為に製造分野に進出する方針でも共通していた。結局、森村組が近代的な窯業部門の製造に進出・発展していく基盤は、孫兵衛とその息子の大倉和親(1875~1955、慶應義塾出身)親子によって構築された。

明治の中頃になると、森村組が扱う商品の中に占める陶磁器の比率が上昇する。 瀬戸から素地を仕入れ、それを京都、名古屋、東京に送って絵付をして、神戸と横浜から輸出していたが、この時期には、各地の絵付工場の専属化に取り組み、技量の優れた画工たちを獲得した。 また、1890年代半ばからは、日本風の絵柄から洋風絵付(ドレスデン風など)への転換にも成功、アメリカ市場で好評を博す。

当時名古屋は、輸出向けの陶磁器製品の絵付を行う産地としての機能を持ち始める。 1889(明治22)年に新橋・神戸間の東海道線が開通、名古屋の経済的地位は向上し、森村組も1892(明治25)年に名古屋店を開設、さらに、1898年10月までに東京や京都の専属絵付工場の名古屋への移転を完了する。

森村組に残された課題は、素地の改良だった。 白色・硬質の磁器を開発・生産するために製陶工場の建設に乗り出し、1904(明治37)年1月に日本陶器合名会社を設立、実質的経営には当時28歳だった大倉和親があたった。 創業期の日本陶器は、最新鋭の石炭窯の増設を重ね、白素地の焼成に努めたが、経営は赤字続きとなり、ディナーセットの開発は、なかなか成果が上がらなかった。

コメント

_ 山崎紘之亮 ― 2022/12/26 08:55

馬場様
いつも森村市左衛門先生の事を取り上げて頂き有難うございます。私は貴兄も森村卒業と同じくらいで、一緒に勉強した様な錯覚に陥ります。森村初等科の同じクラスで男子生徒が24人卒業しましたがその後、中高大各学年から慶應に行った仲間が何と8人もいるんです。福澤と森村の結び付き、絆は永遠です!

_ 轟亭 ― 2022/12/27 08:00

山崎さん、コメント有難うございます。同じ八紘一宇の「紘」の名前の山崎さんは森村学園中学、私は明治学院中学で、目黒の高校受験の塾で一緒でした。大学では会わず、大学卒業30年の同期105年三田会で会ったら、山崎さんが私のことを記憶していてくれました。

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