髙橋裕子津田塾大学学長の記念講演、津田梅子2023/01/18 07:03

 髙橋裕子津田塾大学学長の記念講演「福澤諭吉と津田梅子」は、コロナが大学に与えた影響から始まった。 学生数3,200人、教職員530人の小さな津田塾大学は、医学部もなく、2021年にワクチンの職域接種、特に海外留学予定の学生の扱いに困っていた。 5月28日の就任から一か月も経っていなかった慶應義塾の伊藤公平塾長に相談すると、協力を快諾、慶應の職域接種に津田塾も加えてくれた。 留学生は無事に海外渡航が出来た。

 昨年は「日本の独立宣言」ともいうべき『学問のすゝめ』初編刊行から150年だったが、津田梅子ら初の官費留学生がアメリカに到着してから150年でもあった。 津田梅子の父・仙は、福沢諭吉の二度目の米国渡航の折、翻訳随員として同行しているという接点があった。 津田仙は、半年間滞在したアメリカで農家が富裕だという新たな認識を得た。 仙は、1871(明治4)年開拓使嘱託となり、10月開拓次官の黒田清隆が実現させた女子留学生のアメリカ派遣事業に、強い希望で6歳の次女梅子を応募させた。 梅子は、11年間滞米、1889(明治24)年から3年間ブリンマー大学に再留学、生涯に5回、海外渡航している。 (私は、広瀬すずが津田梅子を演じたテレビ朝日のドラマ『津田梅子―お札になった留学生』(橋部敦子脚本・3月5日放送)を見て、等々力短信 第1153号 2022年3月25日(3月14日ブログ発信)に「津田梅子の父、仙」を書いていた。)

 7歳でアメリカに着いた梅子は、身体全体アメリカ化し、17歳で帰国した時は日本語を喪失しており、日本にカルチャー・ショックを受けた。 官費留学生として日本に何ができるか悩んだ。 3年経ってようやく華族女学校の専任教員となる。 20代半ばで、再度のアメリカ留学を決意する。 前の留学で知り合ったフィラデルフィアの資産家・慈善家・敬虔なクエーカーのメアリ・モリス夫人が、ブリンマー大学のローズ学長に要請し、授業料の免除、寄宿舎の無償提供をしてもらえた。 推奨されない分野である理系の生物学を専攻、2年の予定を1年延長、教育・教授法も学んだ。 「蛙の発生」に関する顕著な研究成果を挙げ、指導教官のトーマス・ハント・モーガン博士との共同論文「蛙の卵の定位」は1894(明治27)年イギリスの学術雑誌に掲載され(欧米の学術雑誌に日本人女性として初)、モーガン博士は1933年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。

 この留学中、梅子が日本女性をアメリカに留学させるための奨学金の創設活動を始めると、ブリンマー大学のトマス学長も協力し、モリス夫人は募金委員長を引き受けて8千ドルの基金を集め、1892(明治25)年に「日本婦人米国奨学金」が発足した。 基金の利子で、4年に1名を留学させ得る規模だった。 第1号受給者は松田道、1893年に渡米しブリンマー大学を卒業、同志社女子専門学校校長。 第2号は河井道、1904(明治37)年ブリンマー大学を卒業、恵泉女学園を創立。 第3号は鈴木歌子、津田梅子が1900(明治33)年に創立した女子英学塾の発足時の教員の一人だったが、1904年からブリンマー大学に学び、女子学習院教授になった。 第4号は星野あい、1912(明治45)年ブリンマー大学を卒業、梅子の後継者として第2代女子英学塾塾長となり、その後の塾の変遷と共に津田塾大学学長まで務めた。 藤田たきは、1925(大正14)年ブリンマー大学を卒業、津田塾大学学長、女性初の国連総会日本政府代表も務めた。 戦後、GHQの38人の委員の内、二人は「日本婦人米国奨学金」の受給者で、アメリカ人と対等に渡り合うことが出来た。