丸の内に移った静嘉堂文庫美術館へ行く2023/01/22 07:38

 世田谷区岡本にあった静嘉堂文庫美術館が、三菱の本拠である丸の内、明治生命館の重厚な建物に移った。 静嘉堂創設130周年・新美術館開館記念展のI「響きあう名宝―曜変・琳派のかがやき」に行こうかと思っている内に、暮になって、最近の展覧会の例でネットで入場券を予約をしようとしたら、すでに売り切れ、当日券があるかどうかわからないという状態だった。 仕方なく、年が変わっての新美術館開館記念展II「初春(はつはる)を祝う七福うさぎがやってくる!!」展(2月4日まで)の時間指定のチケットを予約し、19日に行って来た。

 入口の横に胸像があったのは、岩崎彌太郎と岩崎彌之助だったと思う(彌之助が不確かなのは、展覧会が岩崎小彌太の還暦祝いがメインだったからだ)。 静嘉堂文庫は、三菱財閥第二代総帥岩崎彌之助が1892(明治25)年に神田駿河台の自邸内に創設した文庫「静嘉堂」を起源としている。 彌之助は兄で三菱創業者の彌太郎に従って実業界に入る以前、漢学を学んだ経験があり、恩師である重野安繹(成斎)の研究を援助する目的から古典籍の収集を始め、和漢の古書や古美術品の収集を熱心に行った。 彌之助の死後、その子岩崎小彌太は、父の遺志を受け継ぎ、文庫を拡充し、1911(明治44)年には岩崎家の高輪別邸(現・開東閣)に移転、さらに1924(大正13)年には世田谷区岡本にある彌之助の墓の隣接地に静嘉堂文庫を建て、広く研究者への公開を開始した。 1940(昭和15)年に小彌太は、蔵書や文庫の施設など一切を財団に寄付して財団法人静嘉堂を創立し、典籍の永存を図るとともに、これを公開して学者、研究の利用に供した。

 太平洋戦争後、財閥解体もあって、1953(昭和28)年に同じく三菱系の私立図書館である東洋文庫(創設者は岩崎彌太郎の子で、三菱第三代総帥の岩崎久彌)とともに、国立国会図書館の支部図書館となって、資料の公開を継続することができた。 その後、静嘉堂文庫は1970(昭和45)年に国立国会図書館の傘下を離れ、再び三菱グループ経営の私立図書館となり、1992(平成4)年に創設100年を記念して建設された新館に旧美術館を開館していた。 2022年10月1日、丸の内の明治生命館に展示ギャラリーのみを移転、静嘉堂文庫美術館(愛称「静嘉堂@丸の内」)として再開館したのだった。