落語でお馴染、絶江坂と麻布古川「小言幸兵衛」2023/02/10 07:02

 慶應義塾三の橋仮校舎跡から、警備の警官がいたイラン大使館前、絶江坂の横、薬園坂、新坂を通って、明治通りに出、光林寺のヘンリー・ヒュースケンの墓に行った。 このコース、実は落語好きには馴染の地名の出て来る一帯なのだ。

 まず絶江坂は、古今亭志ん生の「黄金餅」の言い立ての終点、麻布絶口(絶江)釜無村だ。 「絶口釜無村」、いかにも貧乏人が住んでいそうな地名である。 下谷山崎町、坊主の西念が、ケチケチ貯めた二分金と一分銀の山をあんころ餅にくるんで、吞み込んで死ぬ。 隣家の金兵衛が、菜漬の樽に入れ、長屋の連中と自分の寺へ、担いで行く。 「下谷の山崎町を出まして、上野の山下、三枚橋から上野広小路、御成街道から五軒町へ出て、その頃、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっつぐに、筋違御門から大通りへ出まして、神田の須田町へ出て、新石町から鍛冶町、今川橋から本白金町、石町へ出て、日本橋を渡りまして、通四丁目、京橋を渡り、まっすぐに新橋を右に切れまして、土橋から久保町、新し橋の通りをまっつぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から飯倉六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、その頃、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村の木蓮寺へ来たときには、みんなずいぶん、くーたびーれた。」

 慶應義塾の大先輩で、福澤諭吉協会で知り合うことができた俵元昭さんに、著書『港区史跡散歩』(学生社)がある。 それによると、絶江という地名はある。 木蓮寺は架空の寺だが、近くの曹溪寺(南麻布2-9-22)を開山したのが絶江和尚で、元和9(1623)年に今井村に開創し、承応2(1653)年に現在地に移転した。 絶江の寺と呼んだものが、付近の地名になり、坂の名にもなったそうだ。

 もう一つ、落語と関係するのは、麻布古川が「小言幸兵衛」の長屋の地であることだ。 俵元昭さんによると、麻布古川といえば麻布の古川端ならどこでもいいようだが、町屋があったところはごく限られていて、麻布古川の町名を称する場所は、現在象印マホービンのビルのある位置(南麻布1-6の南のブロック)しかないという。 文政11(1828)年の惣家数は9戸、ふさわしい規模だろう、と。

 「小言幸兵衛」の噺は、当日記にもいろいろ書いて来た。 (柳家)権太楼の「小言幸兵衛」本体<小人閑居日記 2010. 3.8.>は、こう始まる。  「麻布の古川に…」、家主幸兵衛の小言が始まる。 お茶を淹れておくれよ、ばあさん、猫ばかりにかかりあっていて、猫ばばあ、今から火を熾すのか、裏の木戸が風でバタバタいっている、鍵はかけなくてもいい。

(柳家)さん喬の「小言幸兵衛」<小人閑居日記 2006.10.2.>では、「小言幸兵衛」には、二種あることを書いていた。  独断と偏見の男、麻布古川の家主・田中、「小言幸兵衛」には仕立屋・心中バージョンと、搗き米屋・仏壇位牌回転バージョンがある。 柳家さん喬のは、前者だった。 貸家の札を見て、まずやって来るのは、乱暴な口を利く豆腐屋。 はなから「ちんたな」ばかり尋ねて、物は言い様、口は利き様だと、幸兵衛に叱られる。 次に来るのは仕立屋。 世帯を持って七年、子供がいないと聞いた幸兵衛に、「三年子なしは去れ、という。別れろ、別れろ」と言われて激怒、「逆ボタル、アンニャモンニャ、誰が越してくるもんか、バカヤロー」と去る。