楠木正成、再び起つ2023/02/18 07:04

 元弘2年秋、赤坂城が陥落してから丸一年が経った頃、和田にいた多聞丸や母の元に、山伏の風体をした郎党の一人がやって来て、父正成の無事と、「今冬、再び起つ」と伝えた。 護良親王は、畿内周辺を転々としながら、鎌倉打倒の令旨を出し続けていた。 だが呼応する者は少数で、大半は成り行きを見守っていた。 これ以上の呼応を増やすには、再び起って鎌倉に弓を引く者が現れねばならない。 表舞台に出る覚悟を決め、還俗して大塔宮から護良親王となった。

 正成が動いたのは師走17日、多聞丸は齢七つ、この日のことを鮮明に覚えている。 父は紀伊国隅田(すだ)荘に、突如楠木軍700で現れ、隅田党に大打撃を与え勝利した。 隅田有田郡に根を張る湯浅宗藤が地頭職として赤坂城を与えられていた。 湯浅党は次はここと、籠城の兵糧を運び込む準備をしていたが、楠木軍は三日間その猶予を与えて荷駄隊を襲い、偽装してまんまと入城、一人の死人も出さずに、湯浅宗藤は降り、配下となって戦うことを誓った。

 正成は、赤坂城を奪還すると、金剛山に点在する城の補修を行い始めた。 まず赤坂城の南南東半里の桐山にある城、上赤坂城と呼ばれることになり、従来の赤坂城は下赤坂城と使い分けて呼ばれるようになる。 二つ目は、上赤坂城から南東に一里半、河内と大和をつなぐ街道を見下ろす要衝にあり、四方が渓谷に囲まれる要害の千早城。 二つの城に逆茂木、板塀などを増築させ、自身は200の兵を率いて河内平野へと進出した。 前回、鎌倉の軍勢の大半は笠置山に向かい、赤坂城に引き付けるのに失敗した。 今回、護良親王より早く決起して、河内、和泉で暴れ回り、天下の耳目を集めて、鎌倉の軍勢を己に集中させたいと考えたのである。