徳川幕府の正当性が揺らぐ衝撃2023/03/13 07:03

 『英雄たちの選択』「200年前のロシア危機 露寇事件」は、題の後半に「松平定信3つの意見書」というのが付いていた。 コメンテーターの一人、岩崎奈緒子京都大学総合博物館教授(近世史)は、近世の日露関係やアイヌ社会を研究、露寇事件の松平定信意見書について新たな学説を発表しており、著書『近世後期の世界認識と鎖国』があるそうだ。

 岩崎奈緒子さんは、江戸時代は武士が支配する軍事政権であり、徳川将軍家は武力で他を圧倒することで支配を確実なものにする「武威」が、日本を支配する正当性の根拠だった、と言う。 それが露寇事件で、外国に敗けてしまう。 「武威」が揺らぐ。 つまり支配の正当性が揺らぐ、幕府は大変なショックだった、とする。

 萱野稔人津田塾大学教授(哲学)は、事件が海からの攻撃であったこと、海の秩序の安定を脅かすものだった、と付け加えた。

 大島幹雄さん(ノンフィクション作家)は、ロシア使節ニコライ・レザノフの日本滞在日記を翻訳し、『魯西亜から来た日本人』という著者もある、この時代のロシアに詳しい方だそうで、アレキサンドル1世当時のロシアは、毛皮目的で北へ行き、売り先としてアジア、中国や日本に交易を求めて行く、と言う。 軍事力としては、レザノフが20万人の騎兵隊を含む70万人の正規軍がいると書いているそうだ。 萱野稔人さんは、ロシアは戦争ばかりしていた国だ、と。

ラクスマンは、寛政5(1793)年6月松前で通商と江戸行きを要求、幕府はその両方を拒否したが、譲歩として交渉のためロシア船が長崎に入港することを許す信牌(特許状)を渡した。 それを決定したのは、老中首座松平定信だった。

11年後の文化元(1804)年9月、長崎にロシア軍艦ナジェージダ号で信牌を持ったレザノフが来航、通商を要求した。 侍従長で、露米会社の総支配人でもあったレザノフは、ラッコの毛皮を獲る入植地が寒冷で悲惨、日本で食料と市場を手に入れたい思惑があった。 半年にわたって、軟禁同様の酷い扱いを受けた後、文化2(1805)年3月ようやく幕府目付と奉行所で対面したが、通商要求など全て拒絶され、携行したアレクサンドル1世の親書も受取を拒否され、侮辱されたと怒り心頭に発していた。 この時、松平定信は既に(寛政5(1793)年)老中を辞職していて対ロシア外交に関与しておらず、老中首座戸田氏教、レザノフ担当は土井利厚だった。 文化2(1805)年4月レザノフはカムチャツカに帰国、その怒りは収まらず、日本船の焼き打ち、武力で威嚇して通商を開かせることを計画する。

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