ラクスマンからレザノフまでの12年、何があったか2023/03/14 07:11

 ラクスマンの時と、レザノフの攻撃の時との、12年の間に、幕府のヨーロッパに対する認識が、格段に高まっていた、と岩崎奈緒子さんは指摘した。 ラクスマンの後、イギリス船が室蘭沖に現れ、津軽海峡を横断して日本海に出ることがあり、幕府は大騒ぎになった。 その他にも太平洋岸でいろいろな国の船がチョロチョロ出て来るようになって、幕府なりに情勢を研究し、ヨーロッパがアフリカ、アメリカ大陸に進出し、そこで植民地を獲得しており、今度はアジアに向かっていることがわかってきた。 ロシアだけでなく、ヨーロッパの動きも勘定に入れなければならなくなって、選択肢が狭まったのだ。

 磯田道史さんは、このあたりのことは研究の最先端で、平成の終りにわかってきた、と言う。 幕府は、ヨーロッパが何をしようとしているか、正確に認識するようになった。

12年間の空白、ロシアはどうしていたか。 大島幹雄さんは、エカチェリーナ2世の後を継いだ息子のパーヴェルが、母の政策を全否定して反対のことをやったからだという。 また、松平定信が老中をやっていれば、通商を開くといった、また別の展開があったかもしれないとして、日露関係はその原点で大きな入れ違いがあった、と指摘した。

磯田道史さんは、そこで出てきたのが、「鎖国」という二字の熟語だった、とする。 (ケンペルの『日本誌』付録で、日本の国際的孤立の可否を論じた原文を、ロシアの南下など対外的緊張の高まるなか、長崎の通詞から天文・物理学者になった志筑忠雄(しづきただお)が訳出し『鎖国論』と題した(享和元(1801)年)。「鎖国」という日本語の初出で、写本で読み継がれ、幕末の攘夷論の思想的根拠とされた。) 徳川家康は、鎖国などと言っていなかったのに、「祖法」ということにして、「鎖国」という言葉が生まれたがゆえに、言葉に引きずられた外交が始まった。 岩崎さんは、植民地化されるかもしれないという幕府の危機感を補足した。