「京の隅」「篭り居の詩人」2023/03/20 07:09

閑居猫額庭の「花桃」。ここは「桃源郷」か?
     「京の隅」「篭り居の詩人」<小人閑居日記 2004.3.11.>

 芳賀徹さんのNHK人間講座「みやこの円熟」も、きのうが第6回「俳人たちの『みやこ』--与謝蕪村」だった。 芳賀さんには『與謝蕪村の小さな世界』(中公文庫)という著書もある。 じつは先日、書の作品が読めないと書いた時に、ひっぱり出して、図版の「十宜図」の漢詩など、試しに読んでみていた。

 芳賀さんは「よさのぶそん」と「の」を入れて、話した。 蕪村が五十代になって京都に落ち着き、芳賀さんのいわゆる「篭り居の詩人」となったのは、18世紀後半のほぼ田沼時代、「徳川の平和(“パクス・トクガワーナ”というのだそうだ)」がすでに約百五十年つづいて、平和の過飽和感とそれゆえの一種の不安と倦怠を人々の心にもたらし始めた時代だった。 蕪村は、この頽唐の気配、ものがしどけなく崩れかけたさまをこそよしとし、そこに負の美の領分を発見していた。 「京の隅」に篭り居をしては、平和に熟れた古都の風情、まさに同時代の「みやこの円熟」を、その都にふさわしい言葉で鋭くとらえつくした、と芳賀さんはいう。 そして、いま「グローバリゼーション」の声やかましい時代にあって、かえっていっそうこの夜半亭詩人の「京の隅」の幸福に心ひかれる、という。

しら梅や北野の茶屋にすまひ取(とり)  (安永7年)
花の香や嵯峨のともし火消(きゆ)る時 (安永6年)
春水(しゅんすい)や四条五条の橋の下 (天明元年)
遅き日や谺(こだま)聞ゆる京の隅 (天明3年)
ほとゝぎす平安城を筋違(すじかひ)に (明和8年)
若竹や夕日の嵯峨と成(なり)にけり (安永2年)
名月や神泉苑の魚(うを)躍る (年次不詳)
御火焚(おほたき)や霜うつくしき京の町 (明和6年)
うぐひすの啼(なく)や師走の羅生門 (安永8年)

名和未知男句集『妻』<等々力短信 第1165号 2023(令和5).3.25.>2023/03/20 07:14

  名和未知男句集『妻』<等々力短信 第1165号 2023(令和5).3.25.>

 「草の花」主宰の名和未知男さんから第五句集『妻』を頂いた。 藤田あけ烏師が平成16(2004)年に逝去、名和さんが主宰を引き継いだ「草の花」は平成5(1993)年の創刊だから、今年30周年を迎える。 『妻』には、師の忌を詠んだ<浅茅生の野に日は落ちて赤松忌>がある。 この句集、勉強になることばかりなのだが、まず枕詞。

「浅茅生(あさぢふ)」は、チガヤのまばらに生えた所、転じて、荒れはてた野原だというが、「をの(小野)」にかかる枕詞なのだそうだ。 <しなざかる越にねまりて雪に恋ふ>の「しなざかる」、「しな」は坂の意、京から多くの坂を越えていくからというので、国名の「越」にかかる枕詞だという。 「ねまりて」は寝て、だろうか。

 「忌日」の句も多彩で、文化史の感がある。 忌は、季と密接に結びついている。 <わが家にも白梅のあり蕪村の忌>、<円位忌を過ぎて十日の花の風>「円位」は西行、<虚子忌なり一句を得たる甘茶寺>、<サンテグジュペリ逝きにし日なり星涼し>、<万緑のその墓訪はん草田男忌>、<太宰忌や茅花流しの道を行き>、<夕立雲を鳥帰り行くゴッホの忌>、<賢治忌や秋雨に黒き岩手山>、<災害の多き年暮れ寅彦忌>。

 知らない言葉も、いろいろあった。 <八月大名二上山の見ゆる里>「八月大名」、農家の八月はあまり労働を必要としない気楽な月、<卵塔をかまきり登り枯れ初むる>「卵塔」、六角か八角の台座に卵形の塔身を載せた石塔、主に禅僧の墓、<いすの木の虫癭青き青葉風>「いすの木」、マンサク科イスノキ属の常緑高木、「虫癭(ちゅうえい)」、昆虫やダニが植物に産卵・寄生して分泌物を出した結果、異常発育してできたコブ、<月の出をひょんの笛吹き待ちゐたる>「ひょん(瓢)の笛」、イスノキ(別名ヒョンノキ)の虫癭の虫が出たあと空洞となった部分に口を当てて吹くとよく鳴る。

 <残雪や京は花脊のふるまひ茶>に始まり、地名や山の名、鉄道の線名も、豊富だ。 奥醍醐、荒砥、小縣郡(ちいさがたぐん)、塩田平、横川、阿騎野、白神、飛島、尾鈴嶺、八海山、安達太良山、弥彦山、恵那山、木次(きすき)線、三江線、只見線。

 令和3年9月27日、前日までお元気で、家族と墓参に行き会食もした奥様が突然、亡くなった。 朝、雨戸を開ける音がして、10分後、名和さんが一階に降りると、鏡台の前に倒れていたという、「胸部大動脈解離」。 <妻逝きぬ二十日の月の朝かげに><永訣のその朝咲きぬほととぎす><作り置きの最後の料理ちちろ鳴く><妻あらばと呟きゐたる更衣><裏庭に妻ゐる筈と露を踏む><秋風の強くな吹きそ独り身に>。

62年8か月共に暮らしながら、感謝の言葉も別れの言葉も告げられなかった、心の重荷を踏まえて、この句集のタイトルを『妻』となさったそうだ。