洋学トリオが欧州で確信した「大変革」の方向2023/05/25 07:08

 芳賀徹さんの『大君の使節 幕末日本人の西欧体験』に、「洋学トリオ―福沢・松木・箕作」という項がある。 昨日書いた『福翁自伝』の記述も紹介されている。 パリの新聞に、随員個人の名前が出てくる記事はめったにないそうだが、Le Moniteur universel,1862.4.26.に、ドクター松木弘安(Mats-ki-ko-An)が出てきて、松木が「同僚二人(おそらく福沢と箕作)とともにマラケー岸の土木技術書専門店を訪ねた。日本人の学者たちはこの専門店で織物業、博物学、工業化学、諸工芸、および技術(テクノロジー)に関する書籍を大量に選び求めた。かれらは選定のためにさしだされたたくさんの機械や建築の図解を、ことに興味深げに調べていた」とあるそうだ。

 芳賀徹さんは、『福翁自伝』の「鎖国をそのままかついできた」話と、三人の時勢論を紹介し、気骨も、思想傾向も相似た三人の間柄だったという。 福沢はロンドンから、中津の名望ある有力者、島津祐太郎(すけたろう)への書簡(文久2年4月11日付(1862年5月9日))で、「学術研究は勿論、その他欧羅巴諸州の事情風習も探索致すべき心得にて、(中略)諸方に知己を求め、国の制度、海陸軍の規則、貢税の取り立て方など承り糺(ただ)し、(中略)百聞は一見にしかずの訳にて、大いに益を得候事も多くござ候」とし、中津藩でも「ご軍制ご変革、洋学お引き立てなどのお仕組みはこれ有り候えども、遅々今日に至り、廉(かど)立ち候義もこれ無し。」「今般諸外国の事情とくと相察し候所にては、/本邦もこれまでのご制度は拠(よんどころ)無きも、ご変革無くては相済むまじく、さ候節は藩もその分に随い、それぞれ改制これ有るは必然の義。」 実地の探索は勿論だけれども、とても一人でわずかの時日では尽くし難いので、あとは書物で取り入れるほかなく、江戸で頂戴したお手当金は、「残らず書物相調え、玩物一品も持ち帰らざる覚悟にござ候。」 「い才の義は帰府の上建白も仕るべく候えども、先ず当今の急務は富国強兵にござ候。富国強兵の本(もと)は人物を養育すること専務に存じ候。」と、書き送っている。

 芳賀徹さんは、この「富国強兵」にしろ、昨日見た「文明開国」にしろ、少なくともこの三人組のあいだには、すでにかなり明瞭に「大変革」の方向が見とおされていたようにうかがわれる、とする。 ことに福沢の「西航記」や「西航手帳」を通読通覧してみれば、この変革の方向が、この27歳の青年によって、欧行中を通じいかに具体的に熱烈に追及され、ゆるぎもためらいもなく貫徹されていったものであるかを感じさせられずにはいない、と言う。

 このときすでに抱懐されていた未来へのパースペクティヴを、三人は、帰国後もそれぞれの道で具体化し実践してゆくであろう。 福沢は、大規模な国民啓蒙のオピニオン・リーダーとして。 松木は、倒幕維新の謀将、そして新政府の外相として、また箕作は、もっと地道な西洋学芸の輸入者として。 と、芳賀徹さんは、まとめている。

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