等々力短信 第1168号は…2023/06/25 07:02

 <等々力短信 第1168号 2023(令和5).6.25.>どういう殿様、中津藩主奥平氏 は、6月15日にアップしました。 6月15日をご覧ください。

学問好きの殿様を多く出した奥平家2023/06/25 07:03

 15日に、どういう殿様、中津藩主奥平氏<等々力短信 第1168号 2023(令和5).6.25.>を発信したが、『どうする家康』に引きずられて題を決めたので、「奥平氏がどういう殿様」であったかについては、若干、看板に偽りありだった。 『福澤諭吉事典』の「奥平家」(坂井達朗・日朝秀宜)から、引いておく。

奥平氏は中津移封後、学問好きの殿様を多く出したことを、特筆しなければならない。 中でも昌鹿(まさか)は、国学を賀茂真淵に学び和歌に優れていたが、蘭学に対する理解も深く、藩医の前野良沢を保護してその蘭学研究を助成し、前野は『解体新書』の完成に指導的役割を果たした。

また昌高は、蘭学や実学に熱心だった薩摩藩主島津重豪(しげひで)の二男が養子として奥平家に入ったもので、生来資質賢明で中津藩の士風の刷新を図り大いに治績をあげ、寛政8(1796)年には藩校進脩館を創設した。 「蘭癖」と呼ばれた大名の一人である。

昌高の業績として特筆すべきものは、『中津藩オランダ辞書』と呼ばれる二種類の対訳辞書を刊行したことである。 その一つは文化7(1810)年刊行の『蘭語訳撰』で、これは天文、地理、動物、植物などの部門に分類された日本語の語句7,000以上のオランダ訳語をイロハ順に示し、江戸時代の日蘭対訳辞書としてもっとも充実したものであった。 もう一つは文政5(1822)年刊行の『バスタード辞書』で、アルファベット順の蘭日対訳辞書である。

昌服(まさもと)が藩主のとき、嘉永6(1853)年に御固番(おかためばん)事件が起きている。 従来は足軽の役目であった城門警備を下士にやらせることになると、抗議の動きを起こした下士の白石常人らが追放処分となった。 同年にロシア軍艦が長崎に来航すると九州諸藩に海防の命令が下され、中津藩も長崎における異国船警備の任務を分担し、安政3(1856)年には中津に砲台を構築して数門の大砲を備えた。 また中津藩は、元治元(1864)年の長州征討の際には幕命を受けて出兵したが、慶応4(1868)年に始まる戊辰戦争には東征軍に参加した。

昌邁(まさゆき)は、伊予宇和島藩主伊達宗城の四男として生まれ奥平家の養子となった。 戊辰戦争の際には、徳川慶喜に対する寛大な処置を求めて、朝廷へ嘆願書を提出して哀訴した。 明治2(1869)年、版籍奉還により中津藩知事となり、4年に廃藩置県が実施された。