「国政の椅子を争う昔の主従」 ― 2023/09/14 07:03
そこで、堤克政さんの『ざんぎり頭の高崎』の「国政の椅子を争う昔の主従」の、脱藩と衆議院議員選挙の件である。 明治23(1890)年の第一回衆議院議員総選挙で、西群馬郡の高崎町は群馬県第四区に編入され、伊香保の木暮武太夫が当選。 明治25年の解散総選挙は矢島八郎が、その後は毎回木暮が当選していた。 明治35年の第七回から高崎は独立選挙区となり、無所属の大河内輝剛48歳と帝国党の宮部襄55歳が立った。 二人は高崎藩の主従だった。
輝剛は、高崎藩最後の殿様輝声公の弟。 宮部は高崎藩家老を務めた宮部氏の一族。 自由党に加わり自由民権運動の闘士として活躍、政府密偵謀殺教唆の容疑で検挙され6年間も収監された。 特赦で放免され、憲政党を経て帝国党結成に創立委員として参加。
脱藩一件は、明治3(1870)年に宮部は藩の若手幹部と謀り、知藩事輝声公を引退させ輝剛を擁立するために密かに高崎から出奔させ、自分たちも三条実美や岩倉具視など新政府の有力者に意見書を提出した。 このとんでもない事件は不成功に終り、輝剛は捜索の末に発見され説諭されて帰藩。 宮部たちも廃藩置県直前の不安定な時期のため不問となる。
問題の明治35年の第七回衆議院議員総選挙である。 大河内輝剛派は主に実業界の支持、宮部襄派は旧自由党から帝国党員まで幅広い政党人の支持。 しかし、二人は共に高崎藩の首脳だったため旧藩士の間は二分された。 堤克政さんの祖父・寛敏の日記には、両者は互角の戦いで、僅差の予想だったが、282票対179票で、維新時に担がれた方が担ごうとした方に勝った。 祖父は日記に「吾党勝利」と記しているそうだ。
大河内輝剛は、当選したものの、桂内閣と議会が対立し議会はすぐに解散。 翌年の総選挙では、高崎城下の町年寄の跡を継いだ関根作三郎が打って出て三つ巴の争いとなり、再び輝剛が勝った。 が、またもや解散となり、翌年の第九回では無所属の一騎打ちとなり、242票対184票で宮部が雪辱した。 第十回では、高崎の有力者に推薦された落下傘候補〝天下の成り金〟鈴木久五郎が当選、宮部は一期で終わってしまった。 一方の輝剛は、明治39年に歌舞伎座社長に就任し立候補せず、二人とも僅かな時間の国会議員であった。
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