茶々が産んだ二人の子 ― 2023/12/16 06:59
以前「茶々が産んだ二人の子」というのを、書いていたので、再録する。
茶々が産んだ二人の子<小人閑居日記 2011. 9. 7.>
新潮社『波』9月号の、加藤廣『神君家康の密書』刊行記念インタビューが面白かった。 評判は聞いていたが、加藤さんの『信長の棺』も、『秀吉の枷』も、読んではいない。 ただ、2006年11月5日にテレビ朝日が放映した『信長の棺』を見て、12月1日の日記「(特別出演)の謎、本能寺の謎」に、こう書いていた。
「『信長の棺』だが、太田牛一(松本幸四郎)という『信長公記(しんちょうこうき)』の筆者を主役にして、その視点から、「本能寺の変」後に信長の遺骸が発見されなかった謎に迫る。 信長や秀吉が土木工事に、丹波の「山の民」を使っていたことが一つの鍵になる。 明智光秀に謀反を決意させたのには、前の関白太政大臣近衛前久との帝の信長討伐の宣を受ける密約があったからで、それが空手形になった情報を、忍びからつかんだ秀吉と家康は、「本能寺の変」直後にそれぞれ素早い動きを見せたとする。」
8月14日に書いた「光秀の子孫、「本能寺の変」の真相を捜査」の明智憲三郎さんは、加藤廣さんをどう評価されるのだろうか。
そこで、『波』のインタビューだが、大河ドラマ『江』を見て(実は、まだ見ている)関心のあった鶴松と秀頼の子胤の問題が、本書収録の「蛍大名の変身」という一編にあるらしい。 「蛍大名」とは、姉・龍子が秀吉の側室という威光で出世したといわれる京極高次(初の夫)のことで、家格の高い家柄だから公家たちとの接触も多い。 公家たちの噂話。 茶々が鶴松を懐妊する前、関白秀吉は、九州征伐から帰って宮中に参内したおり、時の後陽成天皇の異母弟である胡佐丸君(のちの智仁親王)を自分の養子に頂けないかと願い出た。 後陽成帝は、秀吉への恩義からか、これを承諾する。 茶々にとっては、脅威以外の何物でもない事態だ。 一刻も早く、たとえ不倫してでも子を作らねばという、女の防衛戦の開始だ。
その結果、すぐに鶴松が誕生した。 実子がないから、畏れ多くも胡佐丸君をと、お願いした前提が崩れても、あくまで胡佐丸君をと言えば、茶々の不義を認めたことになってしまう。 秀吉は平身低頭、養子縁組解消を申し入れる旨の「お詫び詣で」をする。 加藤廣さんは、この経緯を、元関白の九条兼孝が京極高次の耳に囁く趣向で描いたのだそうだ。
茶々が産んだ二人の子、鶴松と秀頼が、本当に秀吉の子かどうかについて、公家社会では様々な噂話が飛び交う。 胤親の詮索では大野治長や石田三成の名前が挙げられて、噂に尾ひれがついてゆく。 加藤さんは、秀吉は胤親の詮索などしなかったろう、第一、不義の罪を問うて茶々を罰し、胤親を放逐でもしようものなら、徳川が大喜びするだけだし、信長の血を守るという一種の贖罪感に支えられた意思も働いただろう、と言う。
公家の囁きから、幼馴染だった茶々の逞しくもおぞましい成長ぶりを見てとり、関ヶ原における身の振り方に悩む高次は、次第に徳川方に傾く。 加藤さんは、関ヶ原開戦時の兵力が双方合わせても三万に満たない状況を作ったのは、まぎれもなく大津城に西軍最強といわれた立花宗茂を引きつけた高次の功績だという。
『波』9月号の表紙は、加藤廣さんの字で、「私は嘘八百を書きません」。
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