「海老すくい」酒井忠次と庄内藩酒井家2023/12/17 07:47

 酒井忠次(ただつぐ)は、徳川四天王・徳川十六神将のともに筆頭とされ、家康に天下を取らせた第一の功臣といわれる。 大永7(1527)年~慶長元(1596)年。 すでに竹千代(家康)が人質として駿府に赴いた時には、酒井元親に次ぐ最高齢者(23歳)の家臣として随行していた。 大河ドラマ『どうする家康』では大森南朋が演じて、家康家中を結束させたり、諸将を接待して盛り上げる折に、何かというと「海老すくい」という踊りを踊ったのが印象的だった。 弘治2(1556)年、柴田勝家との福谷城の戦い、永禄7(1564)年の吉田城攻めの功で城主となる、元亀元(1570)年の姉川の戦い、元亀3(1573)年の三方ヶ原の戦い、天正3(1575)年の長篠の戦いと、数々の戦いで輝かしい武勇譚を残している。 忠次の愛槍は、甕(かめ)もろとも突き抜けて敵を倒した逸話から、「甕通槍」と呼ばれたという。 愛刀の「猪切(いのししぎり)」は、村正の高弟・正真の作で、若い頃に家康と狩に出た折に、忠次がこの刀で猪を斬ったのでこの名がつき、七男の松平甚三郎(庄内藩首席家老)の家に伝わった。

 その庄内藩であるが、酒井忠次(吉田城主)の子・2代家次が下総碓井藩3万石、上野高崎藩5万石、越後高田藩10万石、家次の長子・3代忠勝が信濃松代藩10万石と移封の後、元和8(1622)年に出羽庄内藩13万8千石に加増、移封された。 以来、庄内藩歴代藩主は酒井家、4代忠当(ただまさ)、5代忠義(ただよし)、6代忠真(ただざね)、7代忠寄(ただより)、8代忠温(ただあつ)、9代忠徳(ただあり)、10代忠器(ただかた)、11代忠発(ただあき)、12代忠寛(ただとも)、13代忠篤(ただずみ)、14代忠宝(ただみち)と、みな「忠」の字がついて、明治に至る。

私の父は庄内の鶴岡、酒田あたりの生まれで、幼くして馬場の家の養子となって東京に出て来た。 その兄である伯父は、鶴岡市の旧城址(「公園地」と呼んでいた)に近い家中新町で魚屋を営んでいたので、子供の頃はよく遊びに行った。 地元から柏戸(土地の人は「カスワド」と言っていた)が出た頃に、千代の山一行の巡業や、プロ野球の試合を「公園地」で観たりした。 明治生まれの、女の子の後の二人の男の子、伯父に忠治(ちゅうじ)、父に忠三郎(ちゅうざぶろう)と名付けた、父方の祖父も祖母も、もういなかったけれど、最近になって「忠」の字は、殿様の「忠」から来ているのではないかと気づいたのであった。