「久保田万太郎と現代」シンポジウム ― 2023/12/21 07:02
午後からの「久保田万太郎と現代」シンポジウム。 今年は1963(昭和38)年に亡くなった久保田万太郎の没後60年になる。 万太郎は慶應義塾大学文科の学生だった明治末年に、新進気鋭の作家として幸運なデビューをする。 以来半世紀にわたって、特異な才能を発揮して、小説、戯曲、俳句などの創作から、演劇の制作・演出、放送界での活躍に至るまで、ジャンルを超えて重要な業績を残した。 また万太郎は自らの文学を育んだ母校慶應義塾に深い愛情を注ぎ、三田で教鞭を執るかたわら、『三田文学』で多彩な活動を展開した。 そして晩年には自身の著作権の全てを母校に寄贈し、その遺志は「慶應義塾久保田万太郎記念資金」として結実し、慶應義塾の文化・教育の事業に大きな貢献を果たしてきたが、2013年没後50年で著作権が切れたこともあり、今回の特別展とシンポジウム、10月発刊の『久保田万太郎と現代 ノスタルジーを超えて』(平凡社)の出版で使い切ったという。
シンポジウムは小平麻衣子文学部教授の司会で、まず三人の基調講演があった。 恩田侑布子さん(俳人)「やつしの美の大家 久保田万太郎―「嘆かひ」の俳人よさらば」、石川巧立教大学文学部教授「久保田万太郎から劇文学の可能性を考える」、長谷部浩東京藝術大学美術学部教授(演劇評論家)「万太郎と戸板康二―劇作と批評について」。
私は寡聞にして恩田侑布子さんという俳人を知らなかったが、岩波文庫の『久保田万太郎俳句集』2021年の編集を担当、著書『星を見る人』(春秋社・2023年)で万太郎の魅力と名句の詳しい観察をしているそうだ。 珠玉の俳句が生まれた五つの理由に、1. 幼少期、祖母と東京中の芝居・寄席めぐり、2. 幅広い俳句の師友、3. 少年期から「近代」に違和感、4. 散文化しえないエッセンスを俳句に注ぐ、5. 職人気質の推敲と厳選。
石川巧さんは、久保田万太郎がどのような戯曲を書いたかの実例を6つレジメにしてくれ、久保田万太郎が107本の脚本を残したという話をして、「レーゼドラマ」という言葉を使った。 私はこの「レーゼドラマ」が分からず、あとで調べると、ドイツ語で「上演を目的とせず、読むだけのために書いた戯曲。演出の表現を離れて、思想表現に重点を置く」とあった。
長谷部浩さんは、浅草生まれの万太郎(1889~1963)と三田生まれの戸板康二(1915~93)とは32歳の年の差、二人の関係を話した。 万太郎は、東京に30以上あった小芝居を見て育ち、演劇評論家として出発した。 万太郎は、戸板の父と普通部の同級で、康二が山水女学校の教師になったのを「松杉を植えるな」(定住するな)といい、雑誌『日本演劇』『演劇界』を出していた日本演劇社を紹介、それで『日本演劇』の編集長になった恩人である。 私は、戸板康二が三田の戸板女学校の関係者だということを知らなかったのだが、近年、没後に蔵書類が散逸する事例が多いのに、幸運にも戸板の蔵書類は戸板女子短大に「戸板文庫」として整理保管されているという話だった。
その後、塾生有志による久保田万太郎の「大寺学校」をもとにした能のような形式の朗読があった(作・演出 五十嵐幸輝君(文学部4年))。
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