ある画家の自画像、野見山暁治自伝 ― 2024/01/23 07:10
昔、野見山暁治さんの自伝『一本の線』を読んで、「等々力短信」に「ある画家の自画像」を書いていた。 最近の「日曜美術館」が、二人の妻に先立たれた、と言っていたことにも、少し触れていた。 父親の年齢から、長生きの家系だということもわかる。
ある画家の自画像 等々力短信 第533号 1990(平成2)年6月5日
その人の父親は、九州の遠賀川流域の炭坑地帯で、地主の三男に生れた。 その辺りが、ゴールドラッシュの夢にわいていた頃で、どうしても炭坑をやって、一旗あげたいと考えた。 わずかな元手で、まず質屋を始める。 それで資金をつくろうという遠大な計画だったが、そのうちに炭坑の利権をカタにして金を借りに来た人がいた。 渡りに船と、ほうぼうから借金をして、貸す金を作り、炭坑に手を染めた。 天性の行動力と弁舌と、それらを具現化した体格と容貌を誇る、その父親は、手に入れた炭坑の事業を、大きく軌道に乗せようと燃えていた。 ところが、九大の工学部へ入れて、炭坑の跡をつがせるつもりにしていた長男が、中学卒業を前に「絵描きになりたい」と言いだしたのだ。
画家、野見山暁治さんの自伝、『一本の線』(朝日新聞社)である。 「あとをつがせるべき長男をそんな訳の分からぬ道楽者にさせてたまるか。これが父の本音だった。父に限らない。これは世の中のホンネで、親戚や知人の子供たちが絵描きになりたいと言いだせば、ぼくもぞっとする」。 でも、野見山さんは上京して、美術学校に入った。 十七歳のその年から、戦争の時代をはさんで、二十七歳までの十年間の青春が、確かな、手応えを感じる、信頼できる「線」によって、描かれている。
画家の、鋭い目が、光る。 たとえば、クロッキー研究所に通って、モデルの「おおっている着物を脱ぎ捨てる瞬時の羞じらいだけが女の姿だと思えるようになってきて、その一瞬を捉えるために、ぼくはその時だけを待つようになっている」
自伝は、むずかしい。 どれだけ自分を「まるはだか」にして、語ることができたか、にかかってくるからだ。 ひとは、おおむね、自分の失敗や弱点を語りたがらない。 結局は、自慢話と、自己弁護になってしまう。 そうした制約から自由な、ごくまれな自伝だけが、成功する。 『福翁自伝』を、ひきあいに出すまでもなかろう。 野見山さんはみごとに成功した。 それは、かなりの痛みを、ともなうものだったはずである。
百歳まであと二、三年という父親が寝たきりになり、末の妹が世話をしている福岡の家で、野見山さんは、この本を書いた。 あとがきに「女と出会い、女と別れてゆくいきさつは、いくら年を経てもやはり同じ屋根の下にいる親には秘めておきたい。それどころか、妹がお茶を持ってきてくれるたびに、あわてて原稿を伏せる始末だ」とある。 三人の女性との「いきさつ」を描いたことが、『一本の線』を本物にした。
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