正義を貫く自負と、本間家援助の武器弾薬2024/01/11 07:06

 鳥羽伏見の戦いが始まり、勝機もあったのに、徳川慶喜は江戸へ逃げ帰る。 慶喜の失態を目の当りにした酒井玄蕃は、江戸から父親への手紙で、「徳川三百年の天下も是きり」「馬鹿将軍」と記すが、徳川家の屋台骨は酒井家が支えて行こうとしている。 庄内藩の戊辰戦争、慶応4(1868)年、酒井玄蕃は27歳で庄内軍の指揮官になった。 シンボルは酒井玄蕃の二番大隊旗「破軍星旗」だった。 慶応4年5月、戊辰戦争で会津、庄内を助けようと奥羽越列藩同盟が出来たが、早々に秋田藩、新庄藩が離脱した。

 浅川道夫日大教授(幕末軍事専攻)が現場で話した。 7月11日、舟形で庄内軍二番大隊400と新政府軍500が対峙した。 庄内軍はミニエー銃、最大射程約1250ヤード(1㎞)を持ち、玄蕃は先に発砲するなと指示し、敵の動きがわかるまで行動を抑える。 新政府軍の先頭は、寝返ったばかりの新庄藩軍だった。 敵の配置を確認した玄蕃は、別動隊を迂回させて奇襲、残りの全軍を渡河させた。 庄内軍はイギリス式を訓練していて、統一して動ける傑出した強い藩だった。

 そして酒田の豪商・本間家が代々藩へ資金提供していたが、戦争でさらなる援助をした。 本間美術館館長田中章夫さんは、本間家鉄砲文書に、アカハネ・スネル(プロイセンの武器商人)に鉄砲合薬代34,533両(今の20億円)で、スペンサー銃(元込め式)など購入したとある、と。

 領民も参戦し、庄内軍の4割に達した。 舟形での勝利の翌日、新庄城を攻撃、激戦で陥落させ、降伏した者の命は助け、領民の租税を半減して、人民の心をつかんだ。 さらに秋田藩領に進攻、8月7日湯沢、11日横手、20日大曲を攻略、久保田城に迫った。 一方、他の東北諸藩は苦戦していて、会津は8月から籠城戦となり、9月4日には米沢城降伏、15日には仙台も降伏した。

 佐藤賢一さん…酒井玄蕃は戦さ上手、研鑽余念ない。弟二人が玄蕃の部屋には面白い物、珍しい物、西洋から渡来の物があったと記す。旺盛な知識欲を持っていた。

 森田健司さん…秋田と戦う時に「北征二十絶」という詩を残している。「薩奴は勤王の名を貪(むさぼ)っている。自分たちは義、戦うべき理由を考えて、実績を残したい。日頃から美学を持っている。清潔にして、たとえ首を取られても恰好悪くない姿でいたい。」領民が見て、納得できるような武士道精神を押し出している。

 山村竜也さん…奥州侵攻は理不尽なことで、自分たちは正義を貫いているという自負と自信が、強さになった。それと本間家の財力による最新鋭の武器弾薬。

 磯田道史さん…天保の頃から50万両ぐらいのお金が本間家から入っている。物的戦力=武器の質×兵力。ライフル、元込め、連発、3倍ぐらいの差。

 佐藤賢一さん…酒田の港町(本間家中心の金儲け)と鶴岡(俺たちは武士、戦う仕事)とでは、個性が違う。極端な役割分担、いざ戦争となった時、強かった、役立った。

降伏した庄内、西郷隆盛の寛大な処置2024/01/12 07:10

 9月、新政府軍の拠点、秋田中央部の刈和野で、一進一退の攻防になった。 庄内軍は、新政府軍の増援に苦戦している折、9月11日酒井玄蕃が病気になり立ち上がれなくなった。 それでも輿に乗って進軍し、16日勝利した。 だが、12日には会津藩が降伏し、庄内藩主酒井忠篤(ただずみ)は降伏を表明した。 領地に攻め込まれる前に、戦いを終えようとしたのだ。

 9月25日、謝罪降伏か徹底抗戦かを協議する会議が開かれ、26日謝罪降伏に決定した。 酒井玄蕃も、藩主に従う。

 黒田清隆、西郷隆盛が鶴ヶ岡城に入城したが、処分は意外にも寛大なものだった。 藩主は自宅謹慎、誰の命も奪われず、刀を差しての外出も許された。 城下でも、新政府軍による略奪などなく、領民は通常の生活をしていた。 この措置を指示したのが西郷で、「士が兜を脱いで降伏した以上は、後のことは何も心配はいらぬ」とした。 会津は28万石が、斗南3万石に、という過酷な処分だったが、庄内は17万石が、12万石に。 転封も取りやめになった。 これは本間家と領民たち、庄屋たちの反対運動があり、本間家が5万両を新政府に献金したことで、方針転換となった。

 庄内の人々はこの寛大な措置に感謝していて、酒田市には西郷隆盛を祀る南洲神社がある。 荘内南洲会理事長、小野寺良信さんは語る。 庄内藩士3千名が失職し、どう生きたらよいかと、数次にわたり西郷のところへ留学生を送り、助言をもらった。 それで出来たのが、松ヶ岡開墾場で、明治5年刀を鍬に持ち替え、荒地を開墾、2年後311ヘクタールの桑畑とし、養蚕業を興し、日本有数の絹の産地となり、明治の日本経済を支えた。 大正15年12月、50周年記念の松ヶ岡開墾場綱領に、「徳義を本とし、産業を興して、国家に報じ、以て天下に模範たらんとす」とある、ここに賊軍という汚名を晴らした。

 酒井玄蕃は、明治政府の軍人となり、清国へ渡航、地理気候を始め軍事の探索を続け、清国と戦争になった場合の戦略を練った。 報告書に「戦ふの難きにあらず、戦に至るの難きなり」と、戦いを避けるべきとした。 明治9(1876)年肺病のため33歳で亡くなった。

 佐藤賢一さん…西郷は当初戊辰戦争に関わらず、最後の局面で乗り込んでいる。古い武士だった。

 森田健司さん…西郷は伝説的な庄内の名を残してくれた。転封の指令は2回出ている。1回目は明治元年12月25日、ちょうど鳥羽伏見の戦いの一年後だ。

 磯田道史さん…玄蕃の先生は家康。家康が小牧長久手でやったのと同じことをやった。清国調査のリアリズムは、徳川武士の奥深さだ。

 私は、酒井玄蕃が活躍する佐藤賢一さんの小説『遺訓』に関連して、いろいろ書いていた。
佐藤賢一さんの小説『遺訓』と鶴岡<小人閑居日記 2016.2.23.>
西郷隆盛の「征韓論」は「遣韓論」だった<小人閑居日記 2016.2.24.>
西郷と庄内を警戒する大久保利通<小人閑居日記 2016.2.25.>
福沢諭吉と西郷隆盛<小人閑居日記 2016.2.26.>
西南戦争への福沢の運動と、言論の自由<小人閑居日記 2016.2.27.>
『丁丑公論』と日本国民抵抗の精神<小人閑居日記 2016.2.28.>
福沢の西郷銅像建設趣意書<小人閑居日記 2016.2.29.>
『現代語訳 福澤諭吉 幕末・維新論集』<小人閑居日記 2016.3.1.>
『福澤諭吉事典』の『丁丑公論』<小人閑居日記 2016.3.2.>
佐藤賢一さんの『遺訓』は『新徴組』の続編<小人閑居日記 2018.1.12.>

第189回福澤先生誕生記念会、伊藤公平塾長年頭挨拶2024/01/13 07:11

 10日は第189回福澤先生誕生記念会だった。 2021年から3年間はオンライン開催だったので、久しぶりに三田の西館ホールへ行った。 例によって、「福澤諭吉ここに在り」と「日本の誇」の合唱で始まる。 一曲目、六番までの歌詞を暗記して歌う、幼稚舎生に、横浜初等部生も半分加わったのは、初めてだったと思う。 二曲目のワグネル・ソサィエティー男性合唱団、いつも思うのだが、二番しかない歌詞を見て歌うのは何とかならないか、大学生になると記憶力が減退するのか、後の塾歌斉唱でも見ていたのは、何をか言わんやだ。

 伊藤公平塾長の年頭挨拶。 年次報告的なものは、いずれ『三田評論』で読んでいただくとして、私が聴いた大まかなところを…。 福沢が一番大事にしていたのが、独立。 命がけで国の独立を守る。 個人の独立を、国の独立につなげるシステムの構築。 権力の偏重を、ミドルクラスの奮起、資力を有する人々が協力して、乗り越える。 人間交際、建設的チームワークが、慶應義塾に求められている。

 世界のオピニオンリーダーが、昨年相次いで慶應義塾を訪れたのは、専門の学者がいるからで、気候変動、SDGs、AIについて多事争論の場と成り得る。 世界の大学長会議で、東京声明を発することができた。

 研究プロジェクト、協調する体制で、特色ある研究大学として力を発揮できた。 医学、理工系だけでなく、人文科学分野でも。 「修身要領」21条の伝統を大切にしたい。 そこには、「文芸は社会の平和を助け人生の幸福を増す」とある。 福沢の経済的独立は、実業家の養成を目指した。 スタートアップ企業を、実業として昇華させ、ベンチャーキャピタル、ファンドで資金調達を達成する。 慶應義塾は、根拠にもとづく楽観主義で進む。

 荒俣宏さんの記念講演は、明日から書きます。

「金がない」福沢、暮らしの隅々まで関心2024/01/14 07:39

 記念講演は、作家の荒俣宏さんの「わが『福澤伝』を語る」だった。 荒俣宏さんは、『福翁夢中伝』上下巻を、12月に早川書房から出版した。 1970(昭和45)年法学部卒、日魯漁業に10年勤務、サラリーマン時代に出した『帝都物語』が500万部の大ヒット、以後、ジャンルを超えた執筆活動を続け、著書は300冊ある。

 荒俣さんは、女性の司会者に「荒俣宏君」と呼ばれ、「荒俣宏君とは、俺のことかと思った」、団塊の世代(1947(昭和22)年生れ)も長老になった、と始めた。 早川書房の社長に、福沢諭吉を小説的に書いてくれと頼まれ、4年かかってやった。 今日、慶應義塾に来て、福沢の考え方が残っているなあ、と感じた。 誕生記念会と名刺交換会がくっついている。 福沢を読むと、「金がない」というのが、何度も出て来る。 学校を、一人で作ったんだから、無理もない。 しかも洋学だから、攘夷の連中に殺されるという時に、生徒を集めて、飲み食いもさせて。 それも脱サラで、子供を十何人も育てるようなものだ。 福沢式経済学は、「金がない主義」、経済に生かす。 アルバイトで、翻訳家、作家になる。 自分も、大学3年の時、アルバイトで早川書房に雇われて、SFの翻訳をしたのが始まりで、福沢さんと同じようになった。

 福沢は、本屋の株に入って、福沢屋諭吉、本屋になった。 本屋は、作者を生かさず殺さずで、金を取るのは技術者、板を彫ったり、デザイナー、本を売る人。 作家じゃ食えないので、本屋になる。

 塾では先生にお辞儀をしなくてもいい、目礼すればいい。 理由が偉い、忙しい世の中だ、時間の節約になる。

 福沢は、消費組合(共済組合)も作った。 寄宿舎、アパートをつくった。 生活の場、大きな洗濯場があり、赤ちゃんのおしめが干してある。 つまり、生活の段階からスタートしている。 まず、食わなければならない。 暮らしの隅々まで関心を持っていた。 平田彩奈惠(獨協大学?)の国学の研究によると、昔は、町の人に教えるのに絵で図解して教え、弟子の若いのは2歳からいて、身体で吸収する、お母さんの役割を果たしたという。 福沢も、そういうことをやっている。 生活の立ちゆくことが、世の中を独立自尊の世にする。 現在の、ヒントになる。 小銭をこそこそ貯めて、貯金をする。 一般の日本人の暮らし方、貯蓄(個人資産)の多いのを世界の人は驚く、特にアメリカ人は…。                          (つづく)

「修身要領」と「教育勅語」2024/01/15 07:00

 慶應義塾には、福沢の言ったことが残っている。 自立、自分で働いて、暮らす。 留学させてもらって入婿になった桃介は、自由に発言して、大金を儲けようという奴は慶應に来ないと言ったが、自分は投資で大儲け、寝ていて稼ぐのは嫌な福沢に怒られた。 家庭の福沢が面白い。 家族を非常に大事にする、「修身要領」の29条を見るとわかる。(古本屋で見つけたという「修身要領」の掛軸を披露) (29条「吾党の男女」は「修身要領」を「服膺(ふくよう)」するだけでなく、「広く之を社会一般に及ぼし、天下万衆と共に相率いて最大幸福の域に進む」ことを期待する。) 先ほど塾長も触れられた21条には、文芸、芸術、娯楽の類いが、生きる上で重要で、そういうことにお金を使うことが、心や品位をアップして、人生の幸せを導くと言っている。

 福沢の教えは、一般の人にはわかりやすい、説得力がある。 本来、「塾」というそういうことを、暮らしを教えるところだった。 こういうのは、政府からは嫌がられる。 東京大学は、学位を与え、証書を出す、博士を作る、厳しい試験制度を始める。 私学のいいところがなくなる。 そうじゃない教育、福沢は義塾、「塾」を残したのがすごい。 明治30年代、教育が役所のシステムに入って、証明書を出す。 「塾」的私学をつぶそう、慶應をつぶせ、というのに、福沢は抵抗し、憎い敵「教育勅語」(明治23(1890)年10月30日発布)に反対した。 制度的に、私学はやりにくくなった。 くやしいけれど、「教育勅語」はうまくできすぎている。 福沢の『学問のすゝめ』をみんな読んでいたから、皇室も読んだろう。

 明治30年代、日本は西洋化している。 本では駄目、要領、標語で覚えさせる。 (福沢は晩年、日清戦争後の思想界の混迷、条約改正による内地雑居という新しい事態に対して、「現時の社会に適する」修身処世の綱領を作成することを提唱、福沢の高弟たちが編纂に当り、明治33(1900)年2月1日に独立自尊の「修身要領」29条が完成した。) 自然を大切に、博愛、共存の世界、戦争をやることは仕方がない、家族を守るためには、等々。 大講堂では、アインシュタインが講演するなど、慶應は新しい学問の入口になっていた。

 「教育勅語」の原本を見たが、原稿用紙で二枚、9割は「修身要領」と同じことが書いてある。 しかも短い、標語の形だ。 明治天皇の言葉、キャッチーなキャッチワード。 実は国粋的ではない。 福沢は、やられたと思った。 一番いけないこと、恐ろしいことは、二つ。 親に孝、国に忠。 永遠のキーワード。 井上毅(こわし)の起草、頭にすっと入る、やわらかい言葉、小学生でも理解できる。

                                     (つづく)