原城への砲撃、板倉重昌総司令官2024/02/06 07:02

 司馬遼太郎の『街道をゆく』「島原・天草の諸道」の「板倉」に、原城址へ行ったことが出て来る。 「原城の景観は、じつにあかるい。」と、始まる。 「城の本丸区域は堅固な岩の台でできあがっていて、尻が海に突き出て端が断崖になっている。かたわらの海浜からながめると、一枚の巨大な岩盤が船体のように横たわっているように見える。」 「ただ海上からの攻撃によわい。」 すでに戦国期には西洋の巨大な航洋船が九州の水域にあらわれていて、船ごとに多くの青銅製の大砲を積んでいた。

 もっとも、実際には当時の南蛮船の砲はそれほどの射程をもっていなかったともいえる。 「島原ノ乱の後半、幕府は新教国であるオランダに乞い、平戸にきていたデ・ライプ号を借り、原城を海上から攻撃させた。デ・ライプ号は四百五十発の弾をうちこんだが、実際には断崖の上まで弾があがりにくく、たいていは途中の海に落ちるか、断崖にあたって磯の魚をおどろかしただけにとどまった。/やむなく幕軍はデ・ライプ号の砲五門を外させ、陸上から射撃した。この射撃が、籠城軍にとってもっとも痛手であった。」とある。

 『広辞苑』「島原の乱」、「1637~38(寛永14~15)年天草および島原に起こった百姓一揆。キリシタン教徒が多く、益田四郎時貞を首領とする二万数千人が原城址に拠り、幕府の上使として派遣された板倉重昌はこれを攻めて戦死、ついで老中松平信綱が九州諸大名を指揮して城を攻略。天草(島原)一揆。天草の乱。」 多くの辞書・事典類が3万7千人が全滅したとしているのに対し、『広辞苑』が2万数千人としているのは、落城前に1万人以上が幕府軍に投降したという説を採用したためかと思われる。

 司馬遼太郎の『街道をゆく』の章が「板倉」となっているのは、板倉重昌(1588(天正16)~1638年)を扱っているからだ。 原城へ行く途中に、「板倉内膳正重昌の碑」がある。 「重昌は幕府方の総司令官であった。みずから総攻撃の先頭に立ち、ここで胸に銃弾をうけ、戦死した。一種の自殺ともいえる。」 「重昌は慶長八年(一六〇三)、十六歳で徳川家康に近侍し、重厚な性格と吏才で知られた。大坂冬ノ陣がおわって和睦になったとき、豊臣秀頼は木村重成を使者として家康のもとにつかわし、家康はこの重昌を使者として秀頼のもとに派遣した。年、わずか二十六である。/累進して三代将軍家光の代になってようやく大名になった。三河深溝(ふかうず)一万一千八百五十石で、大名の高としては最小に近い。」 「幕府はこの重昌を総司令官にして九州に派遣したのである。」

 「「重昌は、死ぬだろう」と、当時将軍に近侍して剣を教えていた柳生但馬守宗矩(一万二千五百石)がひそかに憂えたという話は有名である。重昌がいかに幕府の権威を代行する者であっても、その身上(しんしょう)が一万一千石では、諸大名に対する統御がきかない。九州は外様大名ながら大大名が多く、それらがそれぞれ大兵をひきいて参陣するのに、わずか家来三百人程度をひきいてゆく重昌の命令など重んじられようもなかった。/宗矩の予測では、重昌は浮きあがり、その攻撃の命令も諸大名にはきかないであろう。重昌は、謹直な性格をもっている。やむなく自分の家来だけをひきい、城にむかって攻撃を仕掛け、死をもって職責を全うしようとするにちがいない、ということであった。」