東宮御教育参与、「人の疾苦を思う」2024/02/27 07:15

「岩田剛典が見つめた戦争 小泉信三 若者たちに 言えなかったことば」では、戦後の小泉信三を、昭和21(1946)年の東宮御教育参与就任から、皇太子のご成婚までで扱った。 そこで「疾苦」、「人の疾苦を思う」という言葉が出てきた。

 大日本帝国憲法の天皇は、神聖にして侵すべからず、国の元首にして統治権を総攬する、と定められていた。 戦後の日本国憲法では、天皇は日本国および日本国民統合の象徴とされた。 「象徴」としての天皇はどうあるべきか、昭和25(1950)年、学習院高等科2年の皇太子への進講をはじめるにあたり、小泉信三は「御進講覚書」をまとめた。

 皇太子に対し「今日の日本と日本の皇室の御位置およびその責任」ということをお考え願いたいと述べたという。 昭和天皇は大元帥であり、先の大戦の開戦について責任がないとは言い切れない。 だが戦争には敗れたものの民心は皇室を離れなかった、その理由の大半は「陛下の御君徳による」とした。

「殿下に於て、よくよくこの君徳といふことについてお考へになり、皇太子として、将来の君主としての責任を御反省になることは、殿下の些かも怠る可からざる義務であることを、よくお考へにならねばなりませぬ。」

 「君主の人格、その識見は、自ら国の政治によくも悪しくも影響するものであり、殿下の御勉強と修養とは、日本の明日の国運を左右するものと御承知ありたし。」

 「注意すべき行儀作法/気品とディグニチィ(威厳)は間然すべきなし(批判の余地がない)/To pay attention to others(他の人々には注意を払うこと)/人の顔を見て話をきくこと、人の顔を見て物を言うこと/Good manner(良き礼儀)の模範たれ。」

 小泉信三は、昭和27(1952)年11月10日の成年式と立太子礼に際し、世の君主たり皇子たるものの第一の義務は人の疾苦を思うにあること、人は人に仕えることによってはじめて真に仕えられる資格を得ることを、強い確信として御体得なさるであろうと記した。

 小泉は、正田美智子さんの皇太子妃選定にも、皇太子妃教育にもかかわった。 「人の疾苦を思う」皇室という考えは、皇太子妃にも伝わり、皇后としてのなされように表れたのだった。 「等々力短信」1118号 2019.4.25.「皇后美智子さまの御歌」に、こんな歌を引いていた。

 かの時に我がとらざりし分去(わかさ)れの片への道はいづこ行きけむ(平成7年)  ありし日のふと続くかに思ほゆる このさつき日(び)を君は居まさす (昭和42年・小泉信三さんの一周忌)

コメント

_ 深瀬啓司 ― 2024/02/27 19:26

小泉信三先生のお話、いいですね。昨晩志木会幹事の新年会があり、高橋校長、前北さん、倉田さん其の他とお話させて頂きました。先輩から後輩に大切なものを受け継ぐ素晴らしさを感じています。志木校の先生に志木校OBが6名に増え、志木の良さを伝えているそうです。では

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