隈研吾さんの、槇文彦さん追悼文 ― 2024/07/06 07:11
建築家の槇文彦さんが先月6日、95歳で亡くなった。 隈研吾さんが、14日の朝日新聞に追悼文を寄せているのを読んで、あらためてすごい建築家だったことと、代官山ヒルサイドテラスについて、再認識することになった。 以下に、絶賛のほとんど全文を引きたい。
隈さんは、大学で建築を学び始めた70年代初頭、建築界を風靡(ふうび)していたのは、ギラギラした超高層建築や、これみよがしの派手な公共建築群で、どれも成り金風で品がなく、共感できるものはひとつもなかったという。 そこへ、槇文彦が設計した代官山ヒルサイドテラス(1969年第1期竣工)に出あった時の衝撃は今でも忘れられない。 槇の建築だけは、まったく別の、さわやかで控えめで、しかも周囲の街と融けあう、開放的な空気感をたたえていた。 今から思い返せば、槇の建築はひとつの大きな転換の予兆であった。
人口の急増した戦後日本は、大きく派手な建築を大量に造り続けることで、都市化を進め、経済を成長させるという、ひどく粗っぽいモデルで走り続けていた。 そのモデルのフロントランナーであり、リーダーであった建築家、丹下健三の門下生であったにもかかわらず、槇はそのモデルの限界に最も早く気づいた。 槇は丹下研を飛び出し、日本を飛び出して、当時、モダニズム建築運動の中心であったアメリカ東海岸で学び、そしてハーバード大学で教鞭をとった。 その意味で槙は日本建築界きっての国際派であった。
世界から俊英が集まる東海岸で、槇は群造形と呼ばれるアーバンデザインの理論を発表して注目を浴びた。 西欧流の「上からの」アーバンデザイン、「大きな」都市計画にかわって、槇は「下からの」アーバンデザイン、「小さな」都市計画を志向し、それを群造形と呼んだのである。
それはまさに、自然発生的で、多様性を許容し、きめ細かなヒューマンスケールを基本とする、昔からの街並みのデザインの現代版であった。 そのなつかしい街並みを、槇はノスタルジックな湿った形で表現するのではなく、モダニズムのリーダーたちをうならせる知的で客観的な言葉で説明してみせたのである。
その槇が打ち出した方向性は、日本の建築界の潮流を変えただけではなく、世界のモダニズム建築の流れも変えていった。 槇のロジカルで先鋭的な理論は、世界の建築家の目を開かせたし、ヒルサイドテラスを始めとするヒューマンな街づくりの実践と作品群は、その理論を裏付けるだけの、圧倒的な説得力を有していたのである。
そして槇が造った街や建築は、専門家をうならせるだけではなく、実際に明るく、軽やかで楽しかった。 独善的建築家と社会との分断というモダニズムの課題も、槇は見事に乗り越えてみせてくれたのである。
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