槇文彦さんがヒルサイドテラスに関わった事情 ― 2024/07/18 07:06
槇文彦さんについて、この日記の7月6日に隈研吾さんの追悼文、7日から11日まで2012年7月6日の三田演説会の講演「言語、風景、集い。日本の都市・建築の近代化の中であらわれた特性」を書いた。 そこで代官山ヒルサイドテラスの重要性について再認識したわけだが、ヒルサイドテラスのオーナー朝倉健吾さんは大学の同級生で、長年『代官山ヒルサイドテラス通信』を送ってくれている。 その中に登場した槇文彦さんを、改めて読んでみた。
『代官山ヒルサイドテラス通信』7号(2017春・夏)に、槇文彦さんは健吾さんのお兄さん「朝倉徳道さんを偲んで」というエッセイを寄せている。 槇文彦さんがヒルサイドテラスの第一期計画のことで、朝倉さんご一家に初めて会ったのは1967(昭和42)年春のことだったという。 当時は朝倉誠一郎さんもまだお元気で、長男の徳道さん、次男の健吾さん(大学卒業3年後)も一緒だった。
槇さんは、60年代にワシントン大学、そしてハーバード大学で教鞭をとっていたが、そろそろ日本で設計事務所を開こうと帰国したのが1965年だった。 その槇さんが、なぜヒルサイドテラス第一期の建築家候補者となったのか。 槇夫人の操さんの父、松本重治さんは、かつて鎌倉の住人で、慶應義塾大学経済学部教授の西村光夫氏と親しかった。 その西村教授が徳道さんのゼミの指導教授だったので、西村教授から朝倉家へ、ちょうどハーバードで教えていた若い建築家が東京にいますよ、という紹介があったらしい。 そうした縁に加えて、もう一つの偶然は、朝倉家も槇家も共にオール慶應族であった。 徳道さんが幼稚舎で槇さんの三年後輩であることがわかり、健吾さんを含めて、同時代の慶應ボーイであったということが、この後槇さんと朝倉家の間の今日まで半世紀にわたる深い人間的絆を維持していく上で重要な事柄であった、と槇さんは書いている。
そして四分の一世紀後、ヒルサイドテラスはハーバード大学から最も優れた都市デザインの一つとしてプリンス・オブ・ウェールズ都市デザイン賞を受けることになった。 その時、ちょうど徳道さんの長男・陽保(はるやす)さんがハーバード大学のビジネススクールに在学中で、授賞式にも出てくれた。 そのとき槇さんは謝辞で、もしも1965年にハーバード大学を退職していなかったら、あるいは現在の妻と結婚していなかったら、今日この授賞式に出席することはなかったのではないか、と述べたという。
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