馬場文耕、刀の武士を素手で華麗にさばく ― 2024/07/29 07:00
馬場正尊さんに続いて、馬場つながりで、馬場文耕である。 講釈師・馬場文耕を主人公にした朝日新聞朝刊土曜 beの連載小説、沢木耕太郎さんの『暦のしずく』が、佳境を迎えている。 この小説の連載が始まった2022年10月に、沢木耕太郎『暦のしずく』、ただ一人その芸で死刑になった芸人<小人閑居日記 2022.10.10.>、私が「馬場文耕」の名を知っていたのは…<小人閑居日記 2022.10.11.>を書いていた。 それから、今年の3月には池大雅・与謝蕪村の《十便十宜図》に関連して、当時の文化が「田沼期」独特の自由主義的雰囲気のなかで開花したと、18世紀後半、日本文化の大変化<小人閑居日記 2024.3.23.>と、田沼意次と「江戸打ちこわし」<小人閑居日記 2024.3.24.>を書き、『暦のしずく』で田沼意次は、主人公の講釈師・馬場文耕が左京という名だった少年時代に、芝にある直心影流の長沼四郎左衛門国郷の同じ道場に通っていた田沼龍助だったことに触れていた。
そこまでの物語の流れを書いていなかった。 序章「獄門」のあと、5回から第一章「釆女ヶ原」に入る。 馬場文耕が講釈をしていたのは、現在の東京・歌舞伎座の近く釆女ヶ原(うねめがはら)。 講釈に値をつけたくないと言い張り、客に好きなだけの銭を、笊に投げ入れてもらっていた。 小屋で講釈を終えた文耕は、隣の水茶屋の娘、お芳の入れた茶を飲みながら、藤乃屋の隠居・市兵衛とともに、町の噂話に耳を傾ける。
ある日、『太平記』の講釈を終えて帰途についた文耕のまえに、編み笠で顔を隠した武士が立ちふさがった。 禍々(まがまが)しさをたたえて。 三年前、文耕の書いた本『世間御旗本容気(かたぎ)』「弓取も弓は袋に鳥屋形気(かたぎ)」に鳥旗本と書かれたせいで兄が悶死(もんし)、その敵討ちに来たという、名を鎧谷(よろいだに)壮伍と名乗った。
腰の両刀のうち、長い打刀(うちがたな)の鯉口を切った。 正眼に構える鎧谷に、やむなく羽織と草履を脱ぐと、文耕は両手を胸の前に、あたかも刀の柄(つか)を握りでもするかのように、隙間を空けた拳を二つ、前と後ろに揃えて突き出した。 「何の真似だ。かすみの刀でも握っているつもりか」 文耕は正眼に構えた両手を微(かす)かに上下させはじめ、極めてゆっくりだったが、その幅をほんの少しずつ大きくさせていった。 「文耕、手妻を使うか!」 文耕が飛びこんでくると見えたのか、鎧谷が自らの刀で切っ先を払おうとした。 しかし、そこに何もなかったことから、わずかに体勢が左に揺れて崩れた。 その瞬間、文耕が凄まじい速さで、がら空きとなった鎧谷の右の脇を駆け抜けた。 すると、何も持っていなかったはずの文耕の右の手には、逆手で柄を持った抜き身の脇差があった。
「そこまで!」 鋭い声が掛かり、松の木陰から、浪人風の若い侍が姿を現した。 もう勝負はついている、鎧谷に右の袖を見ろ、と言う。 鋭い刃で切られたような裂け目がついていた。 「もし、そのとき、馬場殿がほんのわずかでも、貴方の躰の側に刃先を向けていれば、脇腹から血が噴き出ていたことでしょう」
文耕が宙に投げると、弧を描いて地に突き刺さった足元の自分の脇差を拾って、鎧谷は去った。 歩きながら若い浪人は、実に見事な剣の捌(さば)き、どこで修業をなさいました、と聞く。 無尽流、一人一派、園木覚郎(そのきかくろう)、四国は阿波、早くに致仕(ちし)して、城下はずれにお住まいのはず、お元気ならば…。 その若い浪人、里見樹一郎は文耕と同じ松島町の十蔵店(だな)に住んでいるのだった。
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