馬場文耕、剣聖という園木覚郎に出会う2024/07/30 07:09

 馬場文耕は、里見樹一郎が同じ長屋住まいと知ると、行きつけの飯屋で一献傾けることにする。 里見は二十七、どこかによい仕官の口を求めているが、なかなかないと言う。 そして、園木覚郎のもとでの修業の話を聞きたがった。 文耕が、ちょうど里見くらいの年頃の時、江戸を出て二年が過ぎ、備前岡山の城下で、直心影流長沼派の師範の道場に仮寓していて、阿波の園木覚郎の噂を聞いた。 剣を取って破れたことのない剣聖のような人物だと、畏怖の念をこめて語られる。 師範に園木への紹介状を書いてもらい、阿波徳島へ船で渡った。

 園木は城下のはずれの大きな百姓家のような屋敷に住んでいた。 百姓の老爺のような風貌の人物で、紹介状を読もうともせず、一部屋を与えてくれ、いつまでもいてくれと言った。 文耕が失望し、数日で辞去しようと思っていた二日後、思いもよらぬ出来事に遭遇した。 蜂須賀藩で筆頭家老の家柄にあり、藩主と血縁もあるという権勢者のもとから使者が訪れた。 先頃、家の前を通った折、庭に見事な枝振りの松を眼にした、ぜひ譲っていただきたい、という口上だった。 園木はこう断った、この松は、雨や風の際も、この屋敷を守るように立ちつづけていてくれた、その木をどこかにやることはできない、と。 翌日から、使者は何度もやってきて、金はいくらでも出すとも言ったが、園木は慇懃に断りつづけた。 ついに使者も、我が主人の頼みを断ると御身にどんな災いが降りかかるかわからない、という脅しまがいの言葉を残して立ち去った。 園木は、使者が帰ると、酒の用意をさせ、打刀を腰に差し、外に出た。 柄杓で酒を三度ほど松の根元にふりかけた。 そして、打刀を抜き、右斜め上段に構えると、ほとんど気合を発することなく、左下に向って斬り下ろした。 その素早さに、何が起きたのかわからなかったが、やがてゆっくりと松が倒れはじめた。

 文耕の話を眼を輝かせるようにして聞いていた里見は、屋敷の東西南北の方角と、園木の立ち位置を尋ねた。 松の東側に立っていたとわかると、木の年輪は南北に片寄りがちで、園木先生は北から南へ、硬い木の背から刃を入れたことになる、と言った。 文耕は、永年の謎が不意に解けたような気がした。

 翌日、権勢者の使者が来て、庭の松が倒れているのを見て、驚愕した。 文耕は、結末がどうなるか、見届けるまで滞在することにした。 数日後、荒(すさ)んだ顔つきの浪人が、剣の指南を受けたいと訪れ、真剣での立ち合いを望んだ。 園木は穏やかに断ったが、浪人は声を荒らげ、立ち合わぬというなら、ここで叩き斬るまでのこと、と。 門の外で、と園木は刀を持たずに、浪人に続く。 刀がないのを怪訝がる浪人に、園木は類縁の方はいるかと尋ねた。 妻子など持ってはおらぬ。 それは結構、哀しむ者がいなければ多少たりとも気が楽になる。 世迷い言をぬかすな! 浪人は吠えるように叫ぶと、腰に差した二本のうちの、長い方の刀である打刀を抜いた。 園木は、浪人に向かい、両の拳を軽く握って前に突き出し、幻の刀を正眼に構えた……。

 先ほど、文耕が鎧谷壮吾に対したのと同じように戦いは展開した。 唯一、違っていたのは、園木が、老齢の者とは思えない素早さで浪人の右横を走り過ぎるとき、抜き取った脇差で、体勢の崩れた相手の躰の脇腹を深く突き刺したことだった。 園木は、村人に頼み、菰(こも)をかぶせたその死体を荷車に積んで権勢者の屋敷まで送りつけた。 文耕は、それから一悶着も二悶着もあるかと懸念したが、嘘のように何も起こらなかった。

 七日後の昼下がり、園木は珍しくひとりで城下に向かった。 夜になって、何を買い物してきたのかがわかった。 白木のままの位牌だった。 園木は、白木の位牌を仏壇に安置すると、低い声で般若心経らしい経を読みはじめた。 文耕は、この屋敷に滞在するようになってから、仏間の仏壇に戒名の記されていない白木の位牌がいくつもあるのが、気になっていた。 数えると、それは十二基あった。 権勢者から送られてきた刺客を討ち果たして、あの浪人で十三人目になる。 その夜、園木は、いつまでも仏壇の前を動かなかった。

 翌朝、文耕は、園木に、弟子にしてほしいと頭を下げた。