深川芸者お六と「怪動」、江戸に戻った文耕の暮らし ― 2024/08/02 07:02
馬場文耕と里見樹一郎が酒を酌み交わして、いろいろな話をした翌朝、文耕のもとに、深川芸者のお六が現れた。 昨晩、「怪動(けいどう)」の手が入り、女たちが捕まってしまったのだという。 江戸で公に許された遊里は吉原だけだったが、各所に非公認の遊里が自然発生的に生まれた。 深川を筆頭に、浅草、谷中、根津、音羽、赤坂、芝などで、岡場所と呼ばれた。 江戸も中期の宝暦の頃になると、諸事簡単で安価な岡場所が隆盛を極めるようになる。 町奉行所は、公許の吉原からの要請で、何年かに一度は、岡場所に対して大規模な手入れをせざるをえなかった。 これが「怪動」である。
捕えられた娼妓たちは、吉原に送られる。 吉原では、その娼妓たちを、妓楼の主が品定めをした上で入札し、下は数両から、上は百両近い大金を払って、下げ渡してもらう。 妓楼の主は、その娼妓たちを、奴(やっこ)女郎と呼んで最大三年にわたって無給で働かせることができた。
深川では、仲町だけで十七人が捕まってしまったが、お六は父親の命日なので、無事だったという。 その父親惣助は、文耕の恩人だった。 旅を切り上げ江戸に舞い戻ったとき、文耕は無一文になっていた。 大小の刀は売り払い、九州から帰る途中の上方で講釈の真似事を習い覚え、それを辻々で語ることでわずかな路銀を稼いでいただけだ。 江戸に入ってからは、死んだ父親のかつての俳諧仲間の口入屋を頼り、ほとんど力仕事も同然の日傭の仕事を回してもらい、裏長屋で暮らすようになった。 往来の荒物屋の店先で貸本屋を見かけ、本が読みたくなって、声をかけると通行人の文耕のどこを見込んだのか、井原西鶴の『武家義理物語』を貸してくれることになった。 台帳に、町名、長屋名、名を記すと、「見事な手でいらっしゃる」と。 十日戻しで三カ月ほど付き合うと、その貸本屋惣助が文耕に筆耕の仕事を依頼してくるようになった。 版木に彫って刷る刊本ではなく、筆写を繰り返して本にする写本を出すため、貸本屋の中には筆耕者を必要とする者が少なくなかったのだ。 文耕は、その仕事を得て、日傭の力仕事から解放されることになった。
惣助はまた、文耕が講釈をしながら旅を続けていたと知ると、自分が出入りしている商家の主に声を掛け、店を仕舞った後にその店の中で講釈する、夜講の場を見つけてくれるようになった。 その機会はさほど多くはなかったが、筆耕の仕事と併せれば、なんとか日々の暮らしが立つくらいの稼ぎを得ることができるようになったのだ。 それもこれも、すべてお六の父の惣助のおかげだった。
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