「結局のところ、慶應高校の全国優勝は「運」だった」2024/09/01 07:33

 新潮社『波』9月号に、おおたとしまさ(教育ジャーナリスト)さんが「結局のところ、慶應高校の全国優勝は「運」だった」という、加藤弘士著『慶應高校野球部 「まかせる力」が人を育てる』(新潮選書)の書評を書いている。 徹底した現場取材と関係者ヘのインタビューから、107年ぶりの全国優勝に不可欠だったピースを一つ一つ明らかにしていく、プラグマティズム的教育論であり、同時に組織論の教科書である、とする。 そして結局のところ、塾高の全国優勝が「運」であったことがよくわかる、という。(「塾高」と書くところは、この人も慶應義塾かな。)

 第7章「『失敗の機会』を奪わない」が出色で、慶應義塾幼稚舎の教諭でもある森林貴彦監督は、「勝利よりも成長」を掲げ、生徒たちの人間的成長を、指導の目的に据えて、ブレない。 監督の指導の結果でなく、「自分たちでやったけど、うまくいかなかった」の方が、意味がある、「学校というのはやっぱり、失敗させてあげる場なので」と森林監督。 評者のおおたとしまささんは、スポーツでも受験でも、子供たちの挑戦は、人生の学びのためにあるとして、ときに敗北は最良の教材にさえなる、という。 そして、森林監督と同世代の父親として、2023年塾高ナインが得た「運」のなかでも特に二つの偶然に注目する。

 チームに、元読売ジャイアンツ・清原和博の息子・清原勝児がいたことと、森林監督の息子・森林賢人(けんと)がいたことだ。 清原勝児は、世間の注目を浴びながら、代打として健気な勇気でグラウンドに立った。 森林賢人は、夏の大会を前にメンバーの30人に選ばれず、監督と面談し、1年生の指導を担当するサポートスタッフになった。 帰宅すると父親から「お疲れさん」とひと言だけねぎらいの言葉があり、胸が熱くなったと息子は言う。 このくだりで評者は、父親の胸の内を想像して、ついにこみあげるものを抑えきれなくなった、という。

 二軍はダメ、初戦敗退はダメ、不合格者はダメ、平社員はダメ。――どこがダメなのか言ってみろ! そんなふうに決め付ける社会のほうがダメなんだ! 心底そう思えるひとたちを、森林監督は教育者として、塾高のグラウンドでも幼稚舎の教室でも、育てているのだと、おおたとしまささんは思う。

森林貴彦監督の「全国優勝への転機いくつか」2024/09/02 07:01

 実は、私が「「人間交際」の恵み、福沢諭吉協会五十年」を書かせてもらった福澤諭吉協会の『福澤手帖』201号に、森林貴彦監督が「全国優勝への転機いくつか」という一文を寄せていた。 2023年夏、塾高の応援席をぎっしりと埋めつくした老若男女が、毎試合大きなエネルギーを与えてくれた「社中協力」を体現した姿、応援してくれたすべての人々への感謝と幸せから、それは始まる。

 転機として第一に挙げるのは、2018年に春夏連続で甲子園に出場したこと。 監督3年目で、チーム9年ぶりの春は彦根東(滋賀)に初戦負け、10年ぶりの夏は中越(新潟)にサヨナラ勝ちした後、高知商業に完敗した。 このままではダメで、他校にはない特徴を出す差別化を図ることが大事だと、決断する転機になった。 模索の中から、「自分で考える」、「任せて、信じ、待ち、許す」、「新たな伝統を創る」、「フラットな組織を築く」、「独自の視点を持つ」、「伝えたいことを絞る」、「指導者も選手も日々成長」といった指導理念を土台にしたチーム創りが見えてきた。 それは、いわゆる高校野球らしさとの決別を意味し、高校野球の常識を覆すことを目指すのが使命となった。

 次の転機はコロナ禍。 本来の部活動の価値を提供できない時期が続く中で、野球部としての新たな取り組みへの意欲が湧き上がる。 それまで独学だったウェイトトレーニングやメンタルトレーニングを専門家に委ね部員に還元していく。 意中の人に接触して話し合い、塾高野球部に関わってもらうことになり、この数年でその指導が本格化した。

 2023年春の選抜大会の敗戦も大きな転機となった。 5年ぶりの出場だったが、初戦で仙台育英にタイブレークで負けた瞬間から、夏へのチャレンジが始まった。 仙台育英の強力な投手陣から得点するのにはどうしたらいいのか、どうしたら勝てるのか。 スイング強化のウェイトトレーニングは例年以上時間を確保、打撃練習では「一球で仕留める」ことを意識し、「ありがとう」と「チャレンジ」を旗印とするSBT(スーパーブレイントレーニング)の取り組みも継続、強化した。 「もう一度仙台育英と戦いたい」、「その時には必ず勝ちたい」という一念で練習に臨む日々を過ごした。 再戦は、夏の甲子園決勝戦という最高の舞台が用意された。 そして選手たちの心意気は、応援の後押しもあって、仙台育英を飲み込んだ。

 2023年夏の神奈川県大会の優勝も転機としては欠かせない。 七連勝が必要な激戦区、準決勝の東海大相模では序盤から得点を重ねて勝ち、決勝では横浜高校に9回2点ビハインドからの奇跡的逆転勝ち、神奈川を勝ち抜いた自信と勢いを身にまとって、甲子園に乗り込むことができた。

 次の転機は、甲子園初戦の北陸高校戦。 県大会決勝から16日間空き、猛暑の中を過ごし、「今できることに集中する」「結果は出すものではなく出るもの」と前向きな考えに勇気を得て、9対4で勝利した。 最終回の4失点も、今後につながると理解した。

 転機として決して外せないのは、滞在したホテルや関係者の皆様の温かな対応だった。 「KEIOの日本一」は、単に野球での日本一だけではなく、人間性での日本一も目指すための高い高い目標です、と森林貴彦監督は結んでいる。

松岡正剛さん、情報や文化を組み合わせた「編集工学」2024/09/03 07:10

 松岡正剛(せいごう)さんが、8月12日に亡くなった。 1944年、京都市生まれ、80歳だった。 訃報は、「情報や文化を独自の視点で組み合わせる「編集工学」を提唱し、日本文化を幅広く論じた編集者・著述家」と。 早稲田大学文学部仏文科を中退後、広告会社勤務を経て、71年に出版社「工作舎」を設立、雑誌「遊」を創刊し、みずから編集長を務めた。 87年に編集工学研究所を設立、「情報の歴史」や「知の編集工学」など、情報や編集をキーワードに文明の歩みをたどる著作を次々と発表した。 美術や宗教も幅広く論じ、「日本という方法」など日本文化論にも取り組んだ。 2000年からインターネット上で読書ガイド「千夜千冊」の連載を始め、今年7月の1850夜まで続けた。 編集工学を教える「イシス編集学校」では校長、20年からは角川武蔵野ミュージアムの館長を務めていた。

 松岡正剛さんは、ずっと気になる人だった。 「編集工学」というものも、よくわからないながら、関心の範囲が近いという感じを持っていた。 私は、高校新聞部出身で、ずっと個人通信(ひとり新聞)の発信をつづけてきた。 加藤秀俊さんの『整理学』、梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』以来、情報の処理、発想法に関心を持ち、インターネットのパソコン通信にも初期から関わることになった。 仕事は零細な町工場の経営だったから、経験の範囲が狭いので、書くものはどうしても本で読んだものが多くなる。 好奇心の範囲は、学校の関係から福沢諭吉、幕末を中心とした日本の歴史と文化、子供の頃から好きだった落語、そして文芸、俳句と、雑多で広い、言わば雑学である。

 松岡正剛さんは、今年3月11日から29日まで、朝日新聞朝刊文化面の『語る―人生の贈りもの―』で14回にわたり、その人生を山崎聡記者に語っていた。 切り抜いてあったので、読み返してみたい。

「編集」という方法、父の「組み合わせ」と母の「取り合わせ」2024/09/04 07:14

 松岡正剛さんの『語る―人生の贈りもの―』は、「「わかりやすさ」に抵抗がある」で始まる。 反論があると言ってもいい。 むしろ複雑なもの、畳み込まれたもの、組み合わされたもの、重畳的であるということに、ものすごく惹(ひ)かれる。 たとえば、あるお菓子を「雪見だいふく」と名付けるのは上手なネーミングだとは思うけれど、それ以上に、大福とアイスクリームが一緒になったことが重要だ。 それこそが「編集」という方法だ。 モノ自体も見るけれど、方法だけを見るにはどうしたらいいのか。 そのことをずっと考えてきたような気がする、という。

 なんだか、よくわからない。 なるほど「「わかりやすさ」に抵抗がある」というだけあって、私などにとっては、わかりやすくない。

 松岡正剛さんは、1944(昭和19)年、戦時中の京都に生まれた。 父は呉服商を営んでいた。 悉皆屋というもので、自分では商品を何も持たず、白生地を先染めにするか後染めにするかを決めたり、着物に始まって帯に至るまで、いろんなものを組み合わせてご注文に応える。 注文主の趣味をぜんぶ把握していたようだ。 敗戦後の46年に、東京の日本橋芳町に越し、小学校3年の途中までいて、また京都市下京区、祇園祭で鶏鉾(にわとりほこ)を出す町内に戻った。 父はいわゆる町衆の旦那で、祇園や先斗町で遊びもしたし、歌舞伎や踊りなどの文化を楽しむことに非常に熱心だった。 正剛さんも、わりと小さい頃から南座に連れて行かれ、「一流だけを見ろ」と言っていた。 自分は一流でもなんでもないのに、ただ町衆としては、「ええもんだけ」を見たい(笑)。 顧客に贈りものをしたり、お芝居のチケットを提供したり、旦那衆だから、もてなす方が大事、サービスのし過ぎで、ついには不渡りを出してつぶれてしまう。

 母は、同じ呉服屋の大店の娘、演劇が好きで、女学校時代にラジオのドラマコンクールで優勝したといい、絵も、俳句もうまいし、小唄も上手だった。 父と結婚してからは一切そういう才能を見せなくなったが、正剛さんにはすごく影響を与えてくれた。 鉛筆の削り方から文字の書き方、本の読み方まで。 ルビの入っていないところに自分で入れてみなさいと促したのを覚えている。 それから、京都らしい旬のもの、来客に出すお茶が季節ごとに変わるとか、そういうモノとコトの取り合わせを教えてくれた。

(私の父も「一流」ということを言っていた。<等々力短信 第753号 1996.10.25.>「渚ホテルから」に、こう書いていた。「幼時に上京して、養子として育った私の父は、家族団欒をとりわけ大事にした人で、よく家族で食事に出かけた。 子供の友達が来れば、一緒に連れて行った。 父の基準の「一流」が、世間の評価と一致するかどうかわからないけれど、子供には幼い時から「一流」のスポーツを観せたり、レストランで食事を共にしたりすることによって、雰囲気になれさせたいという気持があったようだ。」)

高校新聞で印刷所の現場、「編集のめざめ」2024/09/05 06:57

 松岡正剛さん、科学への目覚めは小中学生のときからで、虫と鉱物と電気、この三つからほぼ同じだけ刺激を受けた。 虫は昆虫採集、鉱物は化石採集。 電気は、友達と結成した「電気倶楽部」で、乾電池をつなげた回路を作って模型の家を動かしたりした。 後々の寺田寅彦にぞっこんになることとつながる。 一方、思春期に自己をめぐる葛藤はなく、それより昆虫のデザインなど、自分を取り巻く世界の方が、圧倒的に面白すぎた。 同時に、教科書や先生の語り方が方法的に自由じゃないと感じるようにもなった。 生物や地学、物理や化学といった枠組みで捉えるのではなくて、あれも面白い、これも面白いと、世界を面白い状態のまま生き生きと見せることに関心を持つようになる。

 高校入学の直前に、父が横浜・元町に呉服の店を出すことになり、横浜に越して、東京の九段高校に入った。 中学卒業のとき、ガリ版印刷で卒業文集のような冊子を作った。 そのとき京都の「アメリカ文化センター」で見たニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストが、ものすごくかっこよく見えて、新聞や雑誌というメディアに関心を持ち、新聞記者にあこがれた。 高校では出版委員会(新聞部)に入った。 『九段新聞』は日刊工業新聞社の印刷所で組み版や校正をしていたので、すぐ横では大人たちが赤鉛筆でゲラ(校正用の試し刷り)に書きこんでいたり、将棋を指しながらたばこを吸っていた。 そういう印刷の現場がかっこよく、活版印刷、段組み、見出し、「囲み」など、初めて出会う文化の技術だったので、ひとつ一つを知るたびに、ものすごく面白く、わくわくして夢中になった。 こんなに人を興奮させるものはないと思った。 活版職人というものに初めて出会ったのも大きかった。

 それは世界を知る喜びや面白さとはまたちがって、メディアやジャーナリズムが持つ面白さだ。 知識や情報は、何かを媒介にして変じていくんだという驚きだ。 では、何が素材になって、誰がどのようにその「変化」を紡ぎ出しているのか。 松岡正剛さんの「編集のめざめ」がここから始まる。

(私もまったく同じ体験をした。「ルーツは高校新聞<小人閑居日記 2005.5.19.>」「「ゲラ刷り」を校正する仕事<小人閑居日記 2023.6.4.>」「高校時代「ゲラ」校正の思い出<小人閑居日記 2023.6.5.>」を書いていた。)