箱訴の決行、講釈の場を失った文耕が二度目の御前講釈 ― 2024/10/02 07:07
吉原の俵屋に匿われた喜四郎と定次郎の二人と、下谷の上州屋にいる立者百姓たちとの手紙のやりとりは、伝吉に代わって源吉が引き受けることになった。 四月二日、いよいよ箱訴が決行されることになった。 朝早く六人の立者百姓たちは、神田明神の門前で源吉に案内された喜四郎と定次郎と合流し、互いの覚悟を確かめ、皆で成功を祈念して参拝した。 六人は、二人を残して、和田倉門外辰ノ口にある評定所の目安箱に投函した。 次に目安箱が設置される四月十一日にも、二度目の箱訴が行なわれた。 しかし、三日過ぎても、七日が過ぎても、どのようなかたちの沙汰も届いてこなかった。
その顛末を、源吉から逐一聞いていた文耕は、数日来考えつづけていたことを実行に移す決意を固めた。 本来なら、四月の中旬から釆女ヶ原の昼講が行われているはずだった。 世話人の市兵衛が来て、あのあと小屋が荒らされ、町役人から文耕の昼講を遠慮するようにと申し入れがあり、どうもその上に立つ誰かに文耕の締め出しを命じられたらしいという。 井筒屋の主人の病気で夜講ができなくなっていた文耕は、講釈する場をすべて失った。
四月二十日夜、文耕は俵屋で田沼意次と会うことにした。 文耕は、家重公の御前で今一度講釈をさせていただけないかと、無謀とも思われかねない申し出をした。 だが、田沼はさほど驚いた様子も見せず、何を語りたいのかと訊いた。 美濃の郡上で起きている騒動を簡略に説き、縁故による閥がいかに政を歪(ゆが)めているかを語りたい。 田沼は、「上様に、お勧めしてみよう」、来る四月三十日は有章院家継様の祥月命日、上様は増上寺に参拝されるから、と。
翌日から、文耕は美濃郡上の一揆を読物「美濃笠濡らす森の雫」に書き始めた。 強訴でいったん撤回された検見法を、各村の庄屋がやむなく承諾し印形、判を押してしまったのは、幕府から差し遣わされている美濃郡代、青木次郎九郎に呼び出され説得されたからだった。 郡代は、幕府の直轄地を管理する役人で、勘定奉行の支配下にある。 金森藩の領地は、広大な幕府の直轄地と隣接しており、近くの笠松に美濃郡代の陣屋があった。 庄屋たちが判を押したのは、郡代の登場によって、それが幕府からのお達しだと受け取られたからだった。 文耕は、この騒動が錯綜したものになった理由の一端が、そこにあることに気づいた。 幕府の役人である郡代が、一国をなしている大名家の内政に口を挟むなど、あってはならないことだった。 郡代の上司、勘定奉行の大橋親義が絡んでいたに相違ない。 大橋は検見取りを進めるために検地の巧者を紹介するだけでなく、美濃の郡代まで動かして、金森藩を助けようとしていたのだ。 その裏には、たぶん老中の本多正珍と寺社奉行の本多忠央の両本多の存在があったのだろう。
四月三十日、大岡忠光の屋敷で、二度目の御前講釈が行われた。 文耕は、美濃郡上の騒動の経緯を、いっさい無駄をまじえず語り、最後に青木郡代の筋違いの行いの背後に幕閣の中枢に在る方々の影が見え隠れしている、と付け加えた。 家重は、「あいわかった。よくぞ、知らせてくれた」「金森の一件はすでに落着していると聞いていたため、改めて訴状に眼を通すことをしなかった。誤りであった……」と言った。 大岡忠光が、「御老中の本多様には、しばし政から離れていただいた方がよろしいかと」、家重は「そうだな。どのようにするか酒井左衛門尉の考えを聞くことにしよう」と言った。
最近のコメント